86話 弐の牙
その動きはテミスにとって、とても懐かしい物だった。
まるで腰に括られた拳銃を抜き放つがごとき動き。その洗練された動きこそが、この戦闘の行方を決める一打となった。
フリーディアの胸へと切っ先を叩き込みながら、テミスの開いた左手は腰に結い付けられた細剣の鞘へと伸びていた。そして、引きつったフリーディアの気合の籠った声が響くと同時に力を発動。鞘が黄金色の細剣へと姿を変える。
「フッ……」
いかに剣技の達人であろうと、この攻撃を躱すことはできまい。そう確信してテミスの頬が僅かに緩む。体勢を崩した所の強襲に加え、あるはずの無い二本目の剣。意識の外からの攻撃など躱しようがない。次の瞬間。ずぶりという鈍い感覚と共に、テミスは緩めた頬を更に吊り上げた。
「っ――!」
「くぅっ……!?」
一瞬の空白の後、テミスは空を切った右手の細剣を引き戻して鋭く突き上げる。息遣いが聞こえる程密着したこの体制から繰り出された細剣の狙いは顎。その一閃は確実にフリーディアの命を奪い取らんという覚悟が籠っていた。
「……流石に、決められんか」
ポタリ。と。呟きと共にテミスの左手に握られた細剣から血が滴り、血塗れの戦場に新たな染みを生み出した。
「ぐっ……」
その視線の先で、大きく退いたフリーディアは片手で剣を構えながら苦悶の表情を浮かべていた。そのだらりと力の抜かれた右肩からは、だくだくと溢れ出す血が白銀の鎧を汚していた。
「さてと……休息は与えんぞ?」
ゆらり……。とテミスの体が揺れ、両手に握られた長さの異なる細剣が怪しい光を放つ。同時に、前傾したテミスの体が一瞬で掻き消え、再びフリーディアへと肉薄した。
「くあッ……! うっ……ぐっ……」
そこから先の戦闘は一方的だった。テミスの両手から繰り出される一撃をなんとか捌き、躱しながらフリーディアがひたすら後退する。
「っ!」
そして、僅かに躱し損ねた細剣の刃が、薄くフリーディアの肌を削っていった。そして、数分と経たないうちにフリーディアもまた、テミスと同じように自らの血でその服を汚していた。
ただ一点テミスと異なるのは、纏う甲冑の恩恵もあり、傷の数自体はフリーディアの方が圧倒的に少なかった。
――しかし。
「セェッ!」
「きゃっ――!?」
ガインッ! と。甲高い音と共にフリーディアの剣が宙を舞い、少し離れた地面へと突き刺さる。
「終わりだな」
テミスはそう静かに告げると、長い方の細剣をフリーディアへ向けて宣言する。しかし、フリーディアは剣を弾かれて尚、テミスの瞳を睨みつけていた。
「諦めろ。利き腕を負傷し、剣も無い。チェックメイトだ」
「くっ! フリーディア様っ!」
そう告げながらゆっくりと近付くテミスに、フリーディアが後ずさる。そして、その光景を見かねたかのように割って入ってきた兵士を、テミスは一瞥する事も無く左手の細剣で薙ぎ払った。
「私はッ……」
テミスの冷たい視線の先で、フリーディアの唇が動く。痛みに耐える為か、はたまた敗北の辛酸を堪えているのか、その言葉には強い力が籠っていた。
「投降しろ。お前が私に見せた分の慈悲くらいはくれてやる」
「っ……なら、私の答えもわかるはずよね……? テミス」
テミスが近付くと、その分フリーディアが後ろへと退がる。そんな不毛なやり取りを交わしながら、静まり返った戦場は緊張感だけが高まっていった。
「……残念だ」
「っ――!!!」
「何ッ!? くっ!!」
挑発的な笑みを浮かべたフリーディアに、テミスが細剣を振り上げた瞬間。高まった緊張の糸が弾けるように事態が急転した。テミスに背を向けたフリーディアが足元の土を蹴り上げると、脱兎のごとく逃げ出したのだ。
土を振り払いながらその背に向けて放たれたテミスの刺突が空を切り、その霞む視線の先で肩を押さえたフリーディアは更に地を蹴りテミスとの距離を空ける。
「何と言うッ――!?」
「命に代えても行かせるなッ!」
フリーディアを追おうとテミスが身を落とした瞬間だった。高らかに声が響き渡り、周囲を取り囲んでいた兵士たちが一斉にテミスへ向かって押し寄せる。
「チィッ! 面倒なッ!」
テミスは吐き捨てると、押し寄せる兵士の顔に右手の細剣を叩き込む。同時に、左手の細剣で後ろを薙ぎ払い、そのまま額を突き刺した右手を引き寄せて、絶命した兵士の体を盾に振り下ろされる刃を防いだ。
「お前も逃げるのか! こんな――肉の壁を使ってッッ!! フリーディアッ!!」
八方から押し寄せる兵士を切り裂いたテミスが吠え、その返り血にまみれた憤怒の形相が倒れ伏す兵士の中から現れる。
その瞳が見据えるフリーディアの背は既に小さく、周囲を兵士に囲まれたテミスには最早叫びを叩き付ける事しかできる事は無かった。
「私は……絶対に死ぬ訳にはいかないッ……貴女を救うためにッ!」
「ほざけっ!」
遠くから肩越しに振り返ったフリーディアの叫びに、テミスの手が閃いた。倒れ伏す兵士の山の中に、一本の剣を見つけたのだ。即座にテミスは右手に握っていた細剣を手放し、傍らに突き立っていた彼女の剣の柄を握り締める。
「護るべき者を盾にして何が騎士かッ!!」
「――っ!!!」
迸る怒りを込めて、テミスは剣を持ち主に向けて投げ放つ。刃を振り回し、弧を描きながら飛んでいったフリーディアの剣は、驚きに目を見開いた彼女の背へと吸い込まれ……。
「フリーディア様ッ!」
「チッ!」
横合いから駆け付けた、白翼の騎士が伸ばした槍に弾かれた。そして、忌々し気に舌打ちをしたテミスの視線の先で、ボロボロのフリーディアが白翼の騎士の乗る馬へと引き上げられる。
「――逃がすかッ!」
悔し気に、そして悲し気に目を細めたフリーディアの視線の先で、血だまりの中のテミスは再び前傾すると叫びをあげたのだった。




