902話 悪魔の選択
数時間後。焚火の周りに集まっている者達が寝静まり始めた頃。
岩窟の隅の暗がりの中では、凍え震えるテミスが一人、今にも途切れてしまいそうな意識を必死で繋ぎ止めていた。
こちらまで響いてきた会話から察するに、獣人たちは夜の間、焚き火が消えぬよう交代で火の番をするらしい。
しかし、とことんまでテミスを虐め抜くつもりなのか、連れであるシズクは火の番を免除され、囲いの一番外側をあてがわれている。
「ッ……。ク……ソ……ッ……」
このままでは凍え死ぬッ……。
ガチガチと歯の根を震わせながら、テミスは事がソウスケの目論見通りに進んでいる事に臍を噛んだ。
夜が深まったとはいえ、この岩窟に転がり込んだのは陽が落ちてすぐ。今はまだ日付すら超えてはいないだろう。
ならば、これから朝にかけて気温はさらに下がっていくはずだ。
「ぅぁ……ぁ……」
最早、寒いなどという感覚は無くなってしまった。ただどうしようもなく体が震え、もぞもぞと体を動かすと身体の表面の感覚が消し飛んでいるのが分かる。
幸いな事に、今ならばまだどうにか体は動く……。ならば、身体が動くうちに何とかしなくてはならない!!
テミスは霞む頭でそう断ずると、熱を逃がさぬために丸めていた身体を鈍く動かし、横たえていた態勢を強引に引き起こした。
「が……ぐっ……ぁ……」
同時に、最早言葉にすらならない悲鳴が口から漏れ、嗚咽となって零れていく。
状況は最悪。最早手段を選んでいる余裕などないように思える。
そもそもこんな状況に陥ったのは、他人よりも頑丈な自らの肉体を過信し、ともすれば厳しい寒さであろうと耐え抜けるかもしれない……などど甘い予測を立てたせいだ。
だからこそ、テミスは自らの眼前に突き付けられた究極の二択を選びかねていた。
究極の二択とは即ち、『奪う』か『奪われる』かだ。
どちらを選ぼうとも今回の計画に支障は出るし、最悪の場合はギルファーとの前面衝突の引き金にすらなりかねない。
全ては私の油断が……甘さが招いた災厄だ。
「っ……!!! だが……ッ!!」
テミスは寒さで麻痺した唇を噛み締めると、チラリと焚き火の真横に横たわるソウスケへと視線を走らせる。
この場を生き延び、かつ穏便に済ませるのならば、私が奴の言葉に従うのが一番単純だろう。
私ならば、たとえ奴隷として一度鎖に繋がれたところで、隙を突いて脱出するなど容易い事だ。
だがその場合。
今身に着けている服や持ち物、そして剣は諦めるほかないだろう。
脱出までにどれ程の時間がかかるかは分からないが、奴は商人を名乗ったのだ。私の所持品の中でも特に上等なこの外套と、ブラックアダマンタイト製の剣を見逃す理由も無い。
「じょ……冗談……では……ないッ!!」
テミスはそこまで思案した瞬間。胸の中に沸き上がった怒りと悍ましさに拳を握り締め、岩窟の壁へと叩きつけた。
しかし、寒さに蝕まれた拳はただ、岩窟の表面でぺちんという情けない音を立てただけで、テミスの胸中の焦りと虚しさを掻き立てただけだった。
「ま……まて……まて……落ち……付け……」
燃え上がった怒りで多少なりとも気力が戻ったのだろう。
テミスは僅かに晴れた意識の中で、千々に乱れた思考をかき集めていく。
冷静に考えれば、今ここで彼等に服従したとしても、奴等が商人である以上全面闘争を避けたとは言い難い。
何故なら、ファントは今、各国にその名を轟かせるほどに注目を集め、日がな様々な所からやって来た商人が鎬を削っている。
それはこの国、ギルファーの商人も例外ではない。
ならばもしも……私から奪った持ち物がファントに流れ着いたならばどうなるだろうか?
サキュドやマグヌス、そしてフリーディアといった将校級の連中でなくとも、黒銀騎団や白翼騎士団の面々ならば、このブラックアダマンタイトの剣や特注の服なんかは一目見ただけでも私の物であると見抜くだろう。
そんな事があった日には、あの戦闘狂共とお人好しが何を考えるかなど、想像するに難くは無い。
「っ~~~!!!!」
それに気付いた瞬間。
テミスは奥歯がミシミシと音を立てるのも構わず、全力で歯を食いしばっていた。
服従に意味が無いのであれば、最早選択肢などあってないようなものではないか。
死ぬ事も、奪われる事も許されないのであれば後は、奪い尽くすしか方法は無い。
だがそれは同時に、テミスが自らの矜持を棄てるのと同じだった。
コトを起こす以上、この場に居るシズク以外の者を始末する必要がある。しかしここにいる者達は未だ、テミス以外の誰を虐げた訳でも無く、悪事を働いた訳でも無いただの商人たちだ。
たとえ、ソウスケのように人間を敵視し、略奪を行った事がありそうな輩でも、テミスがそれをこの目で直接見た訳ではないし、確たる証拠を並べられた訳でも無い。
ならばたとえ平穏の為とはいえ、そんな罪無き者達を手にかけるという事はテミスにとって、己が正義を降り砕く事に等しかった。
「…………」
突き付けられた事実に絶望したテミスの視界が暗転し、荒く浅く繰り返される呼吸だけが意識を支配する。
もう、どうしようもない。
感覚の失せた手がゆっくりと剣へと伸び、震える足が軋んだ人形のような動きで腰を浮かせた時だった。
「あの……大丈夫……ですか……?」
いつの間にかテミスの近くまで歩み寄って来ていた人影が、テラテラと輝く光を背負ったまま、聞き覚えの無い押し殺した声で囁いたのだった。




