901話 寒夜の試練
夜。しんしんと降り続く雪が辺りに静寂をもたらしていた。
今やファントは遥か南の地となり、周囲は空気すらも凍て付く程の極寒。しかし、目的地であるギルファーは遂に目前にまで迫っている。
しかし、陽が落ちてからの雪中行軍は無謀だと判断したテミス達は、同じくギルファーを目指す者達と共に、夜を明かすべく大きな岩窟の中へと避難していた。
「っ……ぐ……くぅッ……」
だが、他の者達は広々とした岩窟の中心で焚かれた焚火を囲んで暖を取っているにも関わらず、テミスはそんな彼等の輪からは遠く離れ、焚火の熱すら届かぬ岩窟の隅に体を寄せ、一人寒さと戦っている。
「テ……テミスさん……」
「シッ……その名を口にするな。お前もあちらで離れていろ」
「ですが……!!」
「……私ならば問題無いッ!!」
そんなテミスの身を案じたシズクが、和気藹々と語らう輪から抜け出して駆け寄ってくるも、テミスは寒さに丸めた身体をガタガタと震わせながら、鋭い眼光で睨み付けた。
確かにこの場は酷く寒く、このまま眠りでもしてしまえば二度と目を覚ます事などできないだろう。
しかしテミスは今、睡眠という愛しくも尊い至高の時間を犠牲にしてでも、この場で目立つ事だけは絶対に避けねばならなかった。
何故なら、ここは既にギルファーの領内。獣人たちが幅を利かせる、彼等の勢力圏の中なのだ。
なればこそ、都市にすら入れていない現状で騒ぎを起こし、強硬派の連中に目を付けられるような面倒事を引き起こす訳にはいかない。
「ええい……目的を忘れるなッ!! お前は私の為に故国へ戻ってきたのか!? 違うだろうッ……?」
「っ……。……。無理だけは、しないで下さいよ。嫌ですからね? 朝になったら冷たくなってるなんて」
「ハッ……この程度の寒さなど大したものか……あまり私を舐めるなよ?」
震えるテミスの手を握り締めた後、不安気に言葉を残して焚火を囲む輪の中へと戻っていくシズクの背に、テミスはニヤリと唇を吊り上げて言葉を返した。
けれど、既に離れ始めていたシズクの背にその小さな声が届く事は無く、テミスの意識は再び、意地と根性だけが頼りの寒さに抗う死闘へと戻っていった。
「ヘヘ……お連れは何だって? やっと命乞いをする気になったか?」
「っ……。下衆め……」
一方、テミス達と同じくギルファーを目指す獣人たちが囲む焚火へと戻ったシズクを待っていたのは、パチパチと爆ぜる火から放たれる暖かな熱と、酒気を孕んだ下卑た声だった。
曰く。彼等はこの辺りで商いをする商人の一団らしい。なかでもこのソウスケという男は、彼等の中で最も大きな商会を営んでいるようで、道連れとなった他の商人たちも彼に倣う格好を取っていた。
しかしこのソウスケの思想は商人を名乗っているにも関わらず、酷く強硬派に傾倒しており、この厳しい気候の中で岩窟へ身を寄せた唯一の人間であるテミスへ、無理難題を吹っかけたのだ。
「馬鹿を言っちゃいけねぇ。いいか? 連中は誇りの欠片もねぇ悪魔なんだよ。少しでも情を見せれば最後、取って食われるのは俺達の方だ」
「っ……!! だからといってやり過ぎでしょう。仮にも彼女はギルファーの窮状を知って助力を申し出てくれたのですよ? そんな者達にまでこのような仕打ちをしていては、我々の周りは敵ばかりになってしまいます」
「ハッ……何もしなくたって俺達の周りは、俺達から大事なモン毟り取っていく敵ばかりさ。それに、俺達を助けてくれるって言うんだったらよォ……」
ギラリ。と。
ソウスケは血走った目を岩窟の隅に身を収めるテミスの方へと向けると、言葉を止めてニンマリと獰猛な笑みを浮かべてから言葉を続けた。
その視線は確かにテミスも捉えてはいたが、欲望に輝く瞳が注がれていたのはむしろ、外套で固く覆われた腰の剣だった。
「……まずはその身体も持ち物もぜぇんぶ俺等に差し出して、テメェ等人間共が獣人族にしてくれた仕打ちを詫びる所から始めねぇとなァッ!!」
煽り立てるような口上と共に、ソウスケ達のギャハハハハという粗野な笑い声が岩窟の中に響き渡る。
それに従うように、彼の周囲の商人たちも数瞬遅れてソウスケへ同調して笑い声をあげた。
「っ……!!」
これが、今のギルファーの現実だった。
誰もが声高に復讐を叫び、かつて虐げられていた鬱憤を晴らさんとしている。
ファントへと旅立つ前と、何も変わっていない。
改めて突き付けられた現実に、シズクは溢れ出そうになる怒りを固く食いしばった歯で呑み下した。
私よりももっと……耐え忍んでいる人がいる。ここで己の感情に流されてしまえば、彼女の頑張りを無駄にしてしまうッ!!
その一念だけが、今にも腰の刀へと閃きそうになるシズクの手を、辛うじて押し留めていた。
「――ハッハッハ。あぁ……そうそう。引き取ってやる前にアンタからもしっかり教えておいてやってくれよ? 奴隷ってのは、ヘンに薄いボロ着てるよりも、素っ裸の方が温かいらしいぜ? ってな!!」
そんな、シズクの忍耐を試すかのように、上機嫌に浴びせかけられるソウスケの罵声を黙殺すると、シズクは今にも漏れ出してしまいそうな殺意を必死で押し殺していたのだった。




