899話 心酌み交わして
十数分後。
テミスとシズクは村唯一の酒場の隅に腰を落ち着けていた。
目の前のテーブルには雑に置かれた木のジョッキが並べられており、テミスは深く被った外套の影から、それを冷めた目で眺めていた。
磨きの足りていない曇ったジョッキに、一目見ただけでわかる質の悪い水混ぜ酒。更に極め付けは、ジョッキをテーブルへと置いた際に、その中身が酷く飛び散っている事だ。
どれをとってもファントではあり得ない光景で、特にマーサの宿屋で給仕もこなすテミスとしては、目の前のそれは見下げ果てた光景だった。
「ホラ。まずは飲め。質は悪いが、替えが無いものでな……」
胸の中で密かにため息を吐いた後、テミスはテーブルの上に置かれた片方のジョッキをシズクの方へと押しやると、自らは残った片方を取り上げてグビリと口を付ける。
それに倣ってシズクもジョッキへ口を付け、ゴクリと一口飲み下した。
しかし、その味が予想を外す事は無く、妙に生臭い水に混じって、仄かに酒の香りが漂う程度であり、二人は揃って顔を見合わせると苦笑いを零す。
「……酷い味だ。いつぞやを思い出すようだ」
「いつぞや……ですか?」
「あぁ……。屑野菜の挟まったサンドイッチに白湯のようなスープ……。カチカチの黒パンで過ごした日もあった」
「ふふ……ありがとうございます。お気を使って頂かなくても結構ですよ? 彼の町の食事は夢のようでしたが、これが普通ですから」
「フゥ……気を遣った訳ではないのだがな……」
思わずボソリと呟いたテミスの言葉に、シズクは小さく笑みを浮かべると、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
けれど、テミスはシズクへ気を遣った積もりも、ましてや語った内容に偽りなど無い。
この世界に来たばかりの頃、貧民に間違われて酷い目に遭った事もあるし、魔王領を目指す根無し草の旅暮らしの時には、今と比べてそれは目も当てられない程に酷い食生活を送っていたものだ。
だからこそ、テミスは酷く不味いながらもこの味には郷愁にも似た懐かしさを感じており、むしろその感情を噛み締めるためにジョッキを煽っていた。
「さて……程度はアレだが一応は酒の席だ。何か言いたい事があるのならば、遠慮せずに言ってくれ」
「っ……!!」
グビリ。と。
再び不味い酒を一口飲み下すと、テミスはシズクの瞳を覗き込むかのように見つめながら本題を切り出した。
一方でシズクも、テミスがただ酒を飲むために自分を連れ出した訳ではない事は理解しており、話題が提示された途端、コトリとジョッキをテーブルへ置いて顔を伏せる。
「…………。私は助力を頼み込んだ身。今更このような事を言い出すなどおこがましくはあるのですが……」
「構わんさ。せっかくの旅路だというのに、延々と連れに辛気臭い表情で黙り込まれるよりはよっぽど……な」
「っ……。それは……確かに。重ねて失礼を致しました」
「解ったならば話せ。如何ともし難い話ならば諦めるが、私に改められる点があるのならば改めよう」
「いえ……」
口ごもるシズクに対して、テミスはいつも通りの不敵な笑みを浮かべ、皮肉を混ぜた言い回しで応ずるが、それを聞いたシズクは何故かクスリと小さな笑みを浮かべると、一度は置いたジョッキを手に取って口を開く。
「ただ、申し訳ない……と思いまして」
「は……? 申し訳ないだと?」
「はい。町を出立する際のやり取りを見てお察しいたしました。私には予測こそできませんが、酷く無理を強いてしまったのだと。その所為であのような旅立たれ方に……」
しかし、続いて飛び出たシズクの言葉はテミスにとって予想外のものだった。
だからこそ、僅かに裏返った声で問い返してしまったのだが、シズクはその問いに小さく肩を落とすと、暗い声で言葉を続けた。
つまるところ、彼女の言う旅立ちとは恐らく、カルヴァスやミュルクに半ば追い立てられるような形で見送られた時の事だろう。
けれど、我々と白翼騎士団の連中とは元より犬猿の仲。あの程度のやり取りなど日常茶飯事だ。
「ハァ……あの馬鹿共が……。つまり何だ? お前は今まで、そんな事を気にして落ち込んでいたのか?」
「えっ……!? ですが、自分達の領主が遠方へ旅立たれるというのにあのような態度を取るなど……」
「クク……。それもまた、あの町を形作る色の一つさ。ファントはいたく懐が深い……根無し草の旅人だろうと、かつての敵とでさえも共に飯を食い、酒を飲んで笑い合ってしまう程にな」
「っ……!! それは……なんと言うか……。とても素敵な事……だと思います……」
だからこそ、テミスは不敵な笑みを浮かべたまま、まるで何事でもないかのように言い放った。
しかしその正面では、テミスの言葉にビクリと肩を跳ねさせたシズクが、胸に溢れた感涙を噛み締めるように言葉を紡ぐ。
だがその直後……。
「フッ……これで胸の閊えは無くなったな? ……ならばここは一つ、盛大に酌み交わして親睦を深めるとしようではないか。何から語る? 南方の話でもするか?」
そんなしんみりとした空気をぶち壊すように、テミスは勢いよく己のジョッキを呷って一気に酒を飲み干すと、ニヤリと満面の笑みを浮かべてそう宣言したのだった。




