894話 拭えぬ激情
それから、取り乱したシズクが平静を取り戻すまでには、優に三十分以上の時間を要した。
それでもまだ、シズクの目頭は潤んでおり、傍らに寄り添うフリーディアの手を離そうとはしなかった。
「……それでは、当面の間はギルファーがファントへ本格的な侵攻を行う可能性は無いという事だな?」
「はい。国を離れている以上、私の口から確約まではしかねますが、その可能性は無いに等しいかと。せいぜい、先日のような小さな部隊を送り込むのが精一杯でしょう」
「フム……」
テミスの問いに、シズクはゆっくりと自らの発言を確かめるように口を開くと、山のような警戒心を孕んだ視線をテミスへと向ける。
無論。その反応こそ正しいものではあるのだろうが、毅然とした口調で応じている割に、頑なにフリーディアの手を離さない辺りがどうにも釈然としない。
確かに脅したのは私で、慰めたのはフリーディアだが、根本的にシズクから見れば、私もフリーディアもファント側の人間の筈なのだが……。
複雑な感情を抱きながらもテミスが小さく息を吐くと、シズクは躊躇うかのように視線を左右させた後、数度口を開閉させてから言葉を重ねた。
「……強硬派が他国を攻めるための軍勢を出せば、我等融和派がそれを座視する訳がありません」
「だろうな……むしろそれは、数で劣るお前達にとっては好機……違うか?」
「っ……!! な……何故……」
「フン……やはりか……」
続けられたシズクの言葉に、テミスがニヤリと口角を吊り上げて言葉を返すと、シズクはビクリと肩を竦ませて、怯える子供のようにフリーディアへとその身を寄せる。
「テミス……貴女ねぇ……」
「ハァ……別に取って食いやしないさ。それに、人魔の融和を謳う我々が自ら戦争を仕掛けるなど、そこのお人好しが許す訳が無かろう」
「…………。ほ……本当……か……?」
「っ……。えぇ……」
そんなシズクの様子に、ため息を吐いたフリーディアが呆れたように細めた目をテミスへと向けると、テミスもまたため息を一つ吐いてから、気怠げな口調でそれに応じた。
しかし、テミスに対して警戒心の塊となっているシズクが素直にそれを信じるはずも無く、まるで縋るようにフリーディアを見上げると、首を傾げて確認を取る。
そして、少しの間をおいた後、苦笑いを浮かべたフリーディアがコクリと頷いてようやく、シズクはフリーディアを捕えていた手をゆっくりと離した。
「やれやれ……。ちなみに、私がお前達の情勢を言い当てたのは、状況を総合的に判断したからだ。まぁ、お前のその反応で予測は確信へと変わった訳だがな」
「くっ……」
「ククッ……少し考えればわかる事だ。種族ごと迫害され、蔑まれ、搾取され続けていた。そんな境遇にあった者が恨みを忘れ、未来を見るのが如何に難しい事かなどな」
「っ……!!」
「それは……」
だが直後、間髪入れる事なく続けられたテミスの言葉に、シズクもフリーディアも動きを止めて口を噤む。
何故なら、シズクにもフリーディアにも、己の記憶の中に決して忘れられぬ光景が、感情が克明に焼き付けられていたから。
フリーディアは思い出す。
家族を、友を魔族に殺され、今も尚復讐に心を滾らせるロンヴァルディアの兵士達を。
その傍らで、シズクは怒りに我を忘れ、テミスに刃を向けたあの夜の事を思い出していた。
そうだ。
協調すべきである……と、頭では理解していた私でさえ、虐げられていたという事実からくるあの激情を抑える事はできなかったのだ。
「フン……だがそれは間違いだ。いかに手酷く迫害された過去があろうと、その事実が自分が他者を迫害して良い道理にはならん」
「テミス……」
「……まぁ、尤も? 自らを嬲り、貶め、迫害した本人に意趣返しをするのならば話は別だがな?」
テミスは皮肉気な笑みを浮かべて言葉を締めくくると、眼前のフリーディアがまるで感激したかのように瞳を潤ませて言葉を漏れしているのに気が付いた。
瞬間。テミスは唇をさらに吊り上げ、笑みを蕩けた蝋燭のように歪んだものへと変えて言葉を付け加える。
だが同時に、フリーディアの反応を見たテミスは、胸の内で密かに一つの決断を下した。
やはり私は、この程度の事でフリーディアの狂った考え方になびいたなどと勘違いされる程度には緩んでいたのだろう。
だからこそ……。
「直接の支援が厳しいのは理解しました。な……ならばせめて物資だけでも――」
「――いいや」
意を決したかのように大きく息を吸い込んだシズクが、真っ直ぐとテミスの目を見据えて紡いだ言葉を、テミスは皆まで言い切る前に首を振って切り捨てた。
そして。
「ひとまずは物資の支援も技術の供与も無しだ。その代わりにシズク……ギルファーに私を連れて行け」
絶句する二人に対して、テミスは悠然とした口調でそう言い切ったのだった。




