83話 セイギの姿
「テミス……様?」
テミスの狂笑が収まると、傍らのマグヌスが気遣わし気に声を上げる。その瞳は、魔王軍の面々の心中を代表するかのように戸惑いに揺れていた。
「クククッ……そうかそうか……そういう事だったか」
全員の視線が突き刺さる中で、テミスは歪んだ笑みを浮かべながらひとりごちる。
「えっと……テミス、どう言う事?」
「…………に食わないんだよ」
「えっ……?」
ボソリと。長い沈黙の後で、俯いたテミスの口から別人のように低い声が漏れ出た。
「ああ。気に食わない。フリーディア、お前と話していてやっと解ったぞ。私の理念が……源流がッ!」
フリーディアの問いに答えたテミスが顔を起こすと、やはりそこには溶けた蝋燭のように歪んだ笑みが張り付いていた。
「気に……食わない?」
「ああ。そうだ。強者が弱者をいたぶる様が気に食わん。見ていて不快なんだ」
おずおずと首をかしげながら問いを重ねたフリーディアに、テミスは持っていた細剣を振るうと高らかに声を上げた。
「故に叩く。更なる強者としてな。その結果として弱者が救われているに過ぎない訳だ」
テミスは空いた片手を握り締めて宣言する。自らの正義が、弱者を救うための物ではないと。この時のテミスの胸中は、周囲の戸惑いとは異なって、晴れ渡る青空のように清々しい気分だった。
そうだ。思えばずっと不思議だった。
他人の子供を殺した犯人が更生して暖かな家庭を築く一方で、奪われた家庭にその子供が戻る事は永遠に無い。結果として、被害者だけが奪われ、消えない傷を抱えたまま進む事になる。
ならば。どうするべきか?
答えは簡単だ。ただひたすらに、悪しき連中を排除する。弱者を護る事では無く、強者たる悪を挫く事こそが、私の正義だったのだ。
「そんなっ……そんなのは正義でも何でもない!」
「正義だよ。少なくとも、立派なお題目だけを掲げて何もしないお前達よりはな」
叫びをあげたフリーディアに、薄嗤いを浮かべたテミスが言葉を叩き付ける。正義の真意を比べるのなら、結果として多くの弱者を救っている私達に軍配が上がるだろう。上辺のお題目を含めるのであれば別だが。
「っ……私達だって!」
「何をした? 戦場で虐殺される力無き魔族でも救ったことがあるのか?」
「それはっ……」
テミスがフリーディアの理論を叩き伏せると、彼女は唇を噛んで黙り込んだ。彼女の掲げる正義など、所詮時や場合で手の平を返す不確かなものだ。暴虐という悪を滅ぼす明確な正義に、対抗できる余地などあるはずもない。
「フッ……やはり魔王軍に入って正解だったな。魔族とは、奪う生物なのだろう?」
テミスはそう言って後ろのマグヌス達を見やると、皮肉気な笑みを浮かべてフリーディアに向き直る。
「ならば奪うとしよう。お前達の暴虐を。それを成さんとする魔手を刈り取ってやろう!!」
「それは……もう……」
目を見開いてフリーディアの前で空を掴んだテミスの手を眺めながら、弱々しい声でフリーディアが呟く。いまさら何を言おうがどうでもいい事だが、まだ何も奪ってない以上、私は自分から彼女に刃を向ける訳にはいかない。
「フリーディア。正義ごっこに興じている間は、一応お前も私の同志だ。故に、今は疾くこの場を去るが良い」
そう言いながらテミスは、キンッ。と軽い音を立てて細剣を鞘に納めた。力が戻った以上、後をついてきたとしても前を食い破ってから相手をしてやればいい。
「待ってっ!」
それだけ告げて体を翻したテミスの背に、フリーディアの声が追い縋る。
「じゃあ、貴女は? そうやって血に濡れて恨まれて……ボロボロのあなたはどうなるの?」
フリーディアの目が、以前は純白の輝きを放っていたテミスの髪へと向けられる。皮肉な事に、ほんのりと紅く染まったその髪はただ白かった時よりも怪しさを増して美しく見えた。
「弱い人達が虐げられているのを見るのは私も嫌……でもわかっているの? その強い人達もあなたの前では虐げられる弱者なのよ? それにあなただって……」
「ああ……そういう事か」
フリーディアに背を向けたまま、更に紡がれた言葉にテミスが頷いた。そして、ゆっくりと振り返ると、綺麗な笑みを浮かべて一言告げる。
「本望だよ」
「……っ!?」
その顔を見て息を呑んだのは、フリーディアだけでは無かった。まるで聖女のように美しく、そして儚げな笑みを浮かべたテミスの姿は、魔族を憎む白翼の騎士達の心にも届く程清廉だった。
「正義とは、悪を以て悪を討つ行為……暴力の正当化に過ぎない」
儚げな笑顔を浮かべたまま、テミスは開いた掌に視線を落として言葉を続ける。
「何をどう繕おうと私の手は既に真っ赤。いつの日か、私が討たれる日も来るのだろうな」
「ならなんでっ――!」
「それでも見過ごせないからだ。許せないからだ。自ら進んで略奪し、嗤っている連中が」
そう言うとテミスは儚げな笑顔を引っ込めて、引き裂かれたようないつもの笑みを浮かべる。
「ならば、同じ場所まで降りて排除せねばなるまい? 見たくも無い聞きたくも無い、まして汚れるのも嫌……駄々っ子でもあるまいに。何かを求めるのならば、何かを捧げる必要があるだろう?」
「それをあなた一人で背負い込む必要なんてどこにもッ――」
フリーディアが一歩を踏み出して声を上げた瞬間。テミスが心底不思議そうに首を傾げた後、ぽかんとした表情を浮かべた。
「背負い込む? 何を言っているんだ?」
「テミ――」
「私は愉しいんだよ! 奪い、嬲って笑い転げていた奴等が絶望する顔を見るのが! 愉快でたまらない! あれ程までに痛快で胸を空くものがあるだろうか? 断言しよう! 無いっ!」
フリーディアの言葉を遮ったテミスは、歪んだ恍惚の表情を浮かべながら声高にまくし立てた。その姿を見るフリーディアの目が、憐憫に満ちているのも知らずに。
「ならなんで……あなたはファントを護っているの?」
「………………はっ?」
たった一言のフリーディアの問いが、狂笑するテミスの表情を凍り付かせた。
「……解らないんだね。うん……そっか」
その姿を見たフリーディアは一人納得したように頷くと、決意を宿した目でテミスを見据えて言葉を続ける。
「テミス。私があなたを守るわ。あなたをそこから救い出してみせる」
それだけ告げて、フリーディアもまたテミスに背を向けて歩き出した。
「撤退します。本陣に戻って襲撃の情報を伝えるわ」
「はっ!」
「まっ……待てフリーディアッ! 私を救うとはどういう意味だっ!?」
我に返ったテミスの問いがフリーディアの背に投げかけられるが、フリーディアは悲し気な笑みを一つ零しただけで、騎士団を率いて足早に立ち去って行った。
「…………何だというのだ……?」
「テミス様ッ! 追いますか!? テミス様ッ!!」
残された戦場には、放心するテミスに指示を仰ぐマグヌスの声だけが響いていた。
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