886話 消え失せぬ研鑽
早朝。陽の光が僅かに顔を覗かせ、朝露を大量に含んだ空気がキラキラと微かな輝きを放つ中。
ビュォン! ヒャゥンッ! と。ファントを守護する詰所の中庭では、静まり返った中庭の澄んだ空気を鋭く切り裂く音が鳴り響いていた。
昼間は剣や魔法の研鑽に励む兵達で賑わうこの場所も、早朝のこの時間帯だけは、テミス一人が全ての空間を独占できるのだ。
「フッ……!! ハッ……!! セェッ……!!」
気合と共に漆黒の剣が振り抜かれ、その斬撃の軌跡が微かに黒い残像となって宙を彩る。
それは一撃。二撃。三撃とその数を増やしていき、またその軌跡も緻密さを増していった。
「ッ……タァァッ!! …………。ふぅ……流石にこれ以上は厳しいか……」
ひと際猛々しい気迫と共に一閃。
テミスは全力で剣を振るった後、残心を終えて静かにひとりごちる。
あの森の中での戦い以来、あれ程大きな揺らぎを見せていた私の能力は、まるでそれが嘘であったかのような安定を取り戻していた。
否。それだけではない。
力を失っていた期間に培った鍛練も確かに身についており、元の身体能力を取り戻した今では、それらを高いレベルで発揮する事ができている。
例えば、今の私が繰り出せる全力の一撃。
その手に持っているのはこれまでテミスが扱っていた大剣ではなく、ロングソードともショートソードとも付かない長さの一振りの剣。
それなりの実力と見る目を持つものが見れば、先程テミスが繰り出した斬撃が一瞬の間に、九つの軌跡を描いている事がわかるだろう。
「さて……大剣の方は……いや、止めておくか……」
そして、テミスはブツブツと独り言を呟きながら剣に手を翳すが、何か思い至ったかのようにピタリとその動きを止める。
先だっての出来事で一つ、テミスは身に染みて思い知った事がある。それは、いつの間にやら自らのトレードマークとなっていた漆黒の大剣の携帯のし辛さだ。
まず、ブラックアダマンタイトの性質上重さを感じることは殆どないが、大剣を形取るその大きさが変わる事は無く、酷くかさばるのだ。
必然的に大剣は背負って携帯する事になるのだが、その大きさも相まって非常に良く目立つ。ひとたび市井の中に出れば嫌でも人目を惹くし、何より私の居場所を常に宣伝する煩わしさがあった。
「あぁ……慣れたとは思っていたのだが……いかんな……」
そう。これまでのテミスは、そう言った煩わしさもある程度は仕方のないものだと諦めを付けていた。
だが、一度でも腰に佩くスタイルを味わってしまうと、どうにも背中に背負うあのスタイルへ戻るのに酷く抵抗があった。
無論。戦闘や有事の際はそのような贅沢など言ってはいられないが、平時に携帯するときくらいは、こちらの格好でもいいのではないだろうか?
「うむ……。だって戸口とかに引っ掛からないし……? 持ち運ぶのだって楽……だからな……」
テミスはひとりで何度も頷きながらそう呟くと、剣に翳していた手をゆっくりと下ろした。
確かに、通常腰に佩くタイプの剣にしては大振りな方で、腰に提げたら提げたで不便な所が無い訳ではない。
だが、テミスは未だフリーディアに自らの能力の事を明かしていないのだ。
当のフリーディアは大剣が形を変えた事を、何やら魔剣だの聖剣だのと言って独自に納得していたが、日ごとに姿を変えていては流石に説明が付かない。
故に、テミスは能力が戻った今も剣を大剣へと戻さずに使い続けている。
「クク……ならば奴が来るまでの間、少し休憩でもしておくかな……」
カチン。と。
テミスは軽快な音と共に剣を鞘へと納めると、片隅に寄せておいた荷物を拾い上げて小さな笑みを浮かべる。
諸々の問題にある程度の片が付いたとはいえ、どうせ今日も山のような後処理が待っているのだ。
ならば、多少訓練を早めに切り上げて、心と体に休息を与えたところで、誰からも責められる謂れは無いだろう。
「ふぁ……ぁふ……。やれやれ……やはり早起きというのは辛いな……」
人目を憚ることなく、テミスは特大の欠伸を繰り出した後、ブツブツと独りごちりながら、詰所の中へと消えていったのだった。




