883話 魂の刹那
「……ありがとうよ」
ボソリ。と。
静かに大太刀を拾い上げた後、コウガはただ一言、穏やかな声でフリーディアへと語り掛けた。
彼女は人間……まごう事無き敵だ。だがそれでも……そこにどんな意図があったのだとしても、彼女は敵である俺の身を案じ、呼びかけてくれた。
全てを諦め、投げ棄て、抗う事を止めてしまいかけた俺に。
なればこそ、礼だけは告げておく。
たとえ二度と返す事のできぬ恩だとしても、彼女が俺にかけてくれた優しさをこの魂に刻んで忘れぬために。
そして……。
「…………」
「っ……!!!」
コウガは大太刀の柄を固く握り締めると、前方で佇むテミスを鋭く睨み付けた。
周囲には、コウガの仲間であった者達の骸が打ち捨てられており、その中心に立つその姿は、悍ましくも美しいものだった。
「フ……クク……」
最早……迷いは無い。
低く喉を鳴らして低く身を沈め、コウガは凪いだ心で独りごちる。
俺の心は既に一度死んだ。全てを諦め投げ出したあの時に、ミツルギコウガという一人の獣人は死んだのだ。
今、ここに居るのはただ一人の男。
世俗の使命も、獣人の誇りも……己が命さえも全て棄てた。残ったのはただ一つ、かけがえのない仲間達が命を張って、魂を懸けて守り抜いてくれたこの想いだけ。
「……いざッ!!」
そう短く言葉を紡ぐと、コウガは大太刀を構え、眼前に見据えたテミスを目がけて疾駆した。
互いに見合っての真剣勝負ですら無い完全な不意打ち。
しかし、誇りすら棄て去ったコウガにとっては最早、名誉や尊厳などといった懸けるものなど持ち得ておらず。
それ故に、己が仇敵であるテミスをただ斃す為だけに、全ての力を振るっていた。
「…………」
一方でテミスも、凄まじい速度で迫り来るコウガの存在を認識していた。
だが、如何に誇りを棄て去り名誉を投げ打とうとも、元よりコウガ達に対してそういった類のものを期待していないテミスにとっては、さしたる意味も感じなかった。
せいぜい感ずるのは、ようやく開き直ったか……という程度で。
だからこそ何の感情も抱く事は無く、ただ己が胸に燃え盛るセイギの心に従って、襲い来るコウガの白刃へと刃を合わせた。
「ォオ……ウォォォォォオオオオオオオオッッッ!!!」
「…………」
バギィィィィィンッッ!! と。
猛々しい咆哮と共に、一対の剣が打ち合わされる。
巨漢の獣人が叩き込む大太刀と人間の少女が繰る片手剣。本来であれば、勝負の行く末など見るまでも無い剣戟。
だが、力強く打ち合わされた大太刀は、まるで次の太刀を用意していたかの如く、そのまま火花を散らせて振り抜かれていた。それは続く第二撃で、刀身を巧く使って斬撃の威力をいなした状態のテミスに対し、コウガは既に構えを終えており、機先を完全に制す形となる。
「ゼェェェエエエエエイッッッ!!!」
そのまま第二撃。
恐ろしいまでの気迫の籠ったコウガの一撃が、雷鳴の如く振り下ろされた。
その一撃は迅さもさることながら威力も凄まじく、音すらも置き去りにして振り回された刃の生み出す剣圧が、背後に生い茂る木々をも斬り倒していく。
――だが。
「フンッ……」
直後に響いたのは、まるで全てを嘲笑うかのような笑い声だった。
否、最早それは笑い声とすら形容すべきではないのだろう。ただ、吐き捨てるように鼻で嗤い、息を吐いただけ。
そんな狂笑の響いた先には、コウガの繰り出した全身全霊の一撃をも易々と躱し、その長い白銀の髪を振り乱しながら翻した身の影から姿を現した漆黒の剣が、コウガの胸を穿つべく一直線に突き出されていた。
「ニィッ――」
「――ッ!!?」
刹那。
剣戟と剣戟の狭間にある須臾の時間で、コウガは勝ち誇った笑みをテミスへと向ける。
既に決着は付いた。この刹那の時間が過ぎ去れば、漆黒の剣はたちまちコウガの胸を貫くだろう。
しかし……。
「せめて一太刀。確かに報いたぞ」
「…………」
勝ち誇った笑みの奥。コウガは固く食いしばった歯の隙間から、漏らした悔し気な言葉で宣言する。
勝負を決する一撃は、確かに全てを懸けた二撃目なのだろう。
だが、コウガの真の狙いは第三撃。
勝負が決し、己が命の滅びが定まったその先にあった。
大太刀の柄に握り込んだ一振りのダガー……それを用いての決死の一撃。けれど恐らく、そうしてまで与えて尚、到底致命傷足り得るものでは無いだろう。決着の決まる大詰めに己が獲物を投げ捨てて得た僅かな時間。
しかし、命すらも代償に差し出して得た時間を使って、コウガは意地を貫き通したのだ。
「…………」
「…………」
そして。
テミスとコウガは互いに真正面から身体をぶつけ合ったまま、口を開くことなく間近でその動きを止めた。
唯一、音を立てるのは、テミスの漆黒の剣を伝って流れ落ちる大量の血液だけで。
裕に数秒もの間……二人はピッタリと肉薄したまま動くことなく佇んでいた後。
グラリ……。と。
コウガの身体が大きく傾ぎ、重厚な音を響かせながら地面へと崩れ落ちたのだった。




