882話 末期の想い
もう……止められない。と。
フリーディアは自らの目の前で、まるで狂気に駆られたかの如く繰り広げられる虐殺を、ただ茫然と眺める事しかできなかった。
また、何もできなかった。以前とは違う……今度ははじめから、側に居たのに。
「っ……」
ゴクリ……。と。
肉を裂き、骨を断つ音に合わせて絶叫が響き渡る地獄の傍らで、フリーディアは静かに目を瞑ると、自らの胸を張り割かんばかりの悲しみを飲み下した。
こうして側に居るだけで、今も確かに感じる。彼女の心が悲鳴を上げているのを。
本当は誰よりも優しいくせに。本当は戦いなんて誰よりも嫌いなくせに。大切な誰かが傷付くのを……力の無い人たちが奪われるのを見たくないから、貴女はそうやって剣を取る。
剣を振るう度に傷付いてボロボロになって……今にも綻びてしまいそうな心を、狂気じみた怒りや絞り出した憎しみで覆い隠して。
「ぁ……ぁ……ぁぁ……」
「っ……!!」
フリーディアが、口惜しさと不甲斐なさに固く拳を握り締めた時だった。自らの傍らからうわ言ともうめき声ともつかない音が聞こえ、フリーディアはビクリと肩を跳ねさせる。
そして、フリーディアが惹かれるように音の元へと視線を向けてみればそこでは、全身を切り刻まれ、完膚なきまでに叩きのめされたコウガが、緩慢に緩んだ瞳をあげて虐殺の光景を見つめていた。
瞬間。
悲しみに暮れ、止まりかけていたフリーディアの脳裏に一筋の閃光が迸った。
彼の率いていた部下たちはもう、助からないかもしれない。けれどせめて……彼だけなら。
狂気に呑まれたテミスの凶刃から、逃がす事ができるかもしれない。
そうすれば少しは、己の振るう刃でボロボロに欠け砕けていくテミスの心も、守る事ができる。
「しっかり……しっかりしなさいッ!!」
「ぅぉ……ぁぁ……ぅぁ……」
そう断ずると、フリーディアは即座に地面に倒れ伏したコウガの傍らへと膝を付き、その巨体を引き上げるべく力を込めながら言葉をかけた。
もう、時間はそう多くは残されていない。きっとテミスは、そう時間の経たないうちに戻ってくるだろう。だからその前に、彼をこの場から逃がす事さえできれば……。
――目の前で潰えかけている一つの命も、血を流し傷付くテミスの心も救う事ができる。
そんな想いを胸に、フリーディアは一部たりとも体を動かそうとしないコウガへ、必死で声をかけ続ける。
「諦めちゃ駄目ッ!! 立って……立つのよッ!!」
「…………」
「あなたまでここで死んでしまったら、彼等はどうなるのッ!? 今は生きて逃げて、この状況を伝えるのが貴方の役目でしょうッ!?」
「っ……」
「勝たなくていいッ!! 戦わなくていいのッ!! 貴方が生きようとしないのなら、貴方に思いを託していった人達の気持ちは……貴方の仲間達が命を懸けて繋いだ想いはどうなるのッ!?」
「っ…………」
耳元で、誰かが叫んでいるのが分かる。
俺のこの大きな身体を助け起こそうと、必死で力を込めているのが。
――もう……放っておいてくれ。
けれど、俺は疲れ果てた心でそう呟くと、再びぼんやりと目の前の景色へと視線を向けた。
これはきっと、この世界の運命なのだろう。
確かに、俺達は奪い、殺し、貶めた。けれどそれと同じだけ、俺達も略奪され、惨殺され、凌辱された。
だからこそ、今度はそれが、また俺達の番だというだけで……。
「は……は……」
吐息まじりに、乾いた笑いが零れ出る。
誇り高き同胞が意味も無く蔑まれ、嬲られ、辱められていた。ただ、連中よりも弱いというだけで。卑劣な手を使わぬが故に御しやすいというだけで。
そんな地獄の中で生き抜きながら牙を研ぎ、漸く奪う側に立つ事ができたはずだった。
もう、奪われなくていい。苦しまなくていい。獣にも劣る、使い捨てのモノのように扱われなくていい。
永い永い苦しみの果て。道半ばで散って逝った同胞たちの無念と共に、ようやくこの地位に立つ事ができたというのに。
「ぁぁ……」
命が散って逝く。
あんなにも呆気なく、そして簡単に。
つい昨日まで共に笑いながら飯を食い、明日の事を語り合っていた仲間達が。
誇らし気な顔をして、いつか俺に自分で作った小太刀を姉さんへ贈るのだと言っていたコテツ。
夜の見張り役は眠くて辛いとこぼしていたサク。そんなサクを、寝入って怪しい奴を見過ごすなよ……と揶揄いながらも、いつも後からこっそりと様子を見に行っていたフウタ。
彼等の笑顔は既にこの世には無く、あるのはただ恐怖と絶望に歪んだ瞬間で時を固められた骸のみ。
「っ…………」
俺にはもう……何も無い。
そう、淀み切ったコウガの心が、全てを諦めて自我すらも手放そうとした瞬間だった。
全身の力が抜けた事で辛うじて持ち上げていた頭が垂れ、視界一杯に眼前の地面が広がった。
同胞の血を吸って何処までも赤く染まり、血生臭く臭い立つ地面。その視界の端に、一本の小ぶりなダガーが輝いている。
「……!!!」
そのダガーを見付けた瞬間、コウガは先程まで自らの心を覆い尽くしていた絶望など忘れて息を呑んだ。
見紛うはずも無い。このダガーは、俺を庇って死んでいったケンの物だ。
気付けば、少しばかり休んだお陰か、凄まじい熱を放っていた体は程よく冷め、余す所のない痛みと鉛のような重たさを覚えはするものの、動かす事に支障はなかった。
「ねぇッ!! お願いだからッ……!?」
「…………」
ガサリ。と。
コウガは静かに腕を動かしてダガーを掌の中へ納めると、脚に力を込めてゆっくりと立ち上がる。
既に、決着は付いたのだろう。あれ程、恐怖と命乞いの悲鳴が上がっていたにも関わらず、今や森の中はしぃんと静まり返っていた。
「案ずるな……皆。じき、俺も其方へ逝く」
静寂の中。
立ち上がったコウガは静かに呟くと、傍らで呆然と己を見上げるフリーディアを一瞥した後、足元に横たわっていた大太刀を音も無く拾い上げたのだった。




