880話 終わりの定め
体が熱い。
この身を染める血を洗い流すかの如く、ボタボタと流れ落ちる滝のような汗が、燃え滾るコウガの身体から熱を奪っていく。
しかしそれでも、胸を焼き焦がすように苛む痛みが和らぐ事は無く、口の中へと込み上げてくる血の味を呑み込む事すら出来ず、コウガは開いた口から涎を滴らせた。
「が……ぁ……ゴホッ……ゼェーッ……ハァーッ!!」
最早指の一本たりとも動かす事はできない。無尽蔵であるかに思えたコウガの体力は底を付き、こうして地に膝を付いて倒れ伏す事に抗っているだけで精一杯だった。
既に耳など碌な機能を果たしておらず、朦朧と霞みがかった意識の奥には、掛け値なしの絶望と恐怖が広がっていた。
アレは一体何なんだ!! と。
コウガは荒く上下する胸の内で、声なき声で絶叫する。
渾身の力を込めた斬撃も、如何なる者の目をも置き去りにした足捌きも、何者をも貫いた刺突も、奴には何一つ通じる事は無かった。
「ハァッ……ハァ……ガハッ……」
抗った事が間違いだったのだ。
関わるべきでは無かったのだ。
コレは、俺たち獣人風情が前に立って良いものでは無い。そんな、圧倒的な後悔を噛み締めながら、コウガは激しく咳き込むと、そのまま地面に額を預けて動きを止める。
もう止そう。
決して敵わぬと思い知らされ、奈落の底に落ちたかのような後悔の果て。荒々しい怒りを宿していたコウガ瞳から、静かに光が失われていった。
どうあがいても勝ち目がないと理解したのならばせめて、誇り高き獣人族として潔くこの命を終わらせるべきだ。
そう考えが至った瞬間。強張っていたコウガの身体から力が抜け、鋼のように固く握り締められていた手がゆっくりと解かれた。
その瞬間。
「――ゴハッ!?」
ズドムッ!! と。
コウガの全身に重厚な音が響き渡ったかと思うと、腹の前で何かが爆発したかのような衝撃と共に、鈍い痛みが迸る。
その痛みに数瞬遅れて、何者かに自らの腹を蹴り上げられたのだと気付いた頃には、薄っすらと開いたコウガの視界には、青黒く生い茂った木々の葉が映っていた。
「何を……そんな満たされたような顔で死のうとしている?」
そしてその視界の隅に、ゆらゆらと揺らめく白銀の髪が翻ったかと思うと、冷たい言葉と共に現れた背筋が凍り付く程の冷酷な光を宿した紅の目が、蔑むようにコウガの事を見下ろしている。
「お前に、心穏やかに死ぬ権利などあると思っているのか?」
「ガぅッ……!?」
「今日この時まで、お前が暴虐を働き、踏みつけにしてきた者たちがそれを赦すと思うのか?」
「グッ……!!」
「その血濡れた手で地獄へと叩き落とされ、絶望と怨嗟の中で果てて逝った者達が……あるいは今も尚、この世界の何処かで嘆き苦しんでいる者達が……。お前だけがッ!! 満足して死ぬ事を認めるとでもッッ!?」
「ガッ……カ……」
ドズン、ガゴン。と。
コウガの傍らまで歩み寄ったテミスは、まるで己の言葉を刻み込むかのように、口を開くと共に倒れ伏したその身体へ鋭い蹴りを叩き込んでいく。
一撃。また一撃と。蹴り抜き、踏み付け、踏み躙る度に、コウガの身体から溢れる血がテミスの靴を赤く染め、飛び散る飛沫が頬を濡らす。
しかし、地面に倒れ伏したコウガがテミスの暴力に一切抗う事は無く、ただ為されるがままに、時折苦悶の声を漏らしながら打ち据えられ続けている。
その光景は周囲の者達に、まるでテミスが無力であるコウガに対して、一方的な暴虐を行っているかのように錯覚させた。
「テミスッ!! やり過ぎよッ!! もう止めてッ!!」
そんな光景を目の当たりにしたフリーディアが止めに入らない訳も無く。フリーディアは、自分達を率いるコウガが打ち据えられる様を、呆気にとられたような顔で見つめていた盗賊たちよりも早く我に返ると、戦いの事すら忘れて、叫びをあげながらテミスへと駆け寄った。
「…………」
「ぐぁッ……!!」
「テミスってば!! そこまでやればもう十分でしょう!?」
だが、傍らへと駆け寄ったフリーディアが言葉を重ねても、テミスはただ、氷のように冷たい光を宿した目をフリーディアへと向けただけで、コウガを痛め付ける手を止める事は無かった。
そして、程なくして。
「コ……コウガさん……」
「なんだよ……アレ……」
「あの人間の言う通りだぜ……勝負は付いたってのに……」
フリーディアの叫びで正気を取り戻したのか、周囲で呆けたように立ち尽くしていた盗賊たちが、ヒソヒソと言葉を交わしながら武器を収め始める。
その態度はまるで、この襲撃から始まった一連の戦闘が、コウガの敗北によって終わりを告げたと言っているかのようで。
「フッ……ククッ……」
「……! テミス……」
ぐちゃり。と。
テミスは嫌な音を立てながら、自らの足の下に踏み据えたコウガの身体から足を離すと、安堵の息を漏らすフリーディアの傍らを通り過ぎて、ゆらりとその身体を周囲の盗賊たちへと向けたのだった。




