878話 反撃の狼煙
「ハハッ……フッ……クククッ……」
胸の内から湧き上がる感情が、昏い嗤い声となって唇の端から漏れ出していく。
眼前には、怒り狂う屈強な獣人の男。力で張り合った所で勝ち目などあるはずも無いのは一目瞭然で……。かつ、先程見せたその巨躯に見合わぬ迅さも、常軌を逸したものだった。
そんな男の怒りの矛先は、間違い無くテミスへと向けられている。しかしテミスは、勝ち様のない戦いが眼前に迫っているにも関わらず、その正坦な顔を皮肉気に歪めて喉を鳴らしていた。
「誇り……? 蛮行……? 無念……? 挙句の果てには贖いだ? 下らん……」
盗賊に身を窶し、他者の幸福を簒奪して回る悪党に誇りなどある訳も無い。ましてや、そんな連中を幾人斬ろうと、それを蛮行だなどと咎める者は居ないだろう。
「…………。いや……」
そこまで思考を巡らせると、テミスはふと溢れる笑いを止めて、脳裏に浮かんだ人物の姿を求めて視線を周囲に巡らせた。
あぁ……そういえば、如何なる悪人であろうと殺すべきではないなどと語る大馬鹿も居たな……。
ふつふつと怒りに似た感情が湧き出る胸の内で、テミスはどこか他人事のようにそんな事を考えながら、留めていた思考を再び巡らせ始める。
「……懐かしい」
巡らせた思考の先で、テミスは思わずその感覚にぽつりと言葉を零した。
そうだ。無念などあって然るべし……血の涙を流す程の口惜しさの中で果てる事こそ、悪逆の徒である連中の定めだろう。
故にこそ、贖う事など何もない……あるはずが無い。
そんな、溶岩の如く煮えたぎる溝泥のような、怒りと苛立ちの入り混じった感情に身を委ねながら、テミスは表情を歪めたまま怒りの咆哮を上げて突進するコウガを悠然と待ち構えていた。
「――ッ!! テミスッッ!!!」
猛進したコウガの巨木のような腕が振りかぶられた刹那。フリーディアの鋭い叫び声が響き渡る。
今のテミスではどうする事もできない。その瞬間を傍から見ていたフリーディアでさえもそう確信する程、コウガの怒りを込めた一撃は迅く、力強かった。
無論。フリーディアが悲痛な叫びをあげた所で、猛然と振るわれたコウガの腕が止まるはずなど無く、ズドンという重厚極まる衝撃が、無慈悲に周囲の空気を震わせた。
だが……。
「……。ハッ……ハハハッ……。どうした? こんな程度か?」
「なッ……!!?」
荒々しい爪を立て、猛然とその剛腕を振るった向こうから、喉を鳴らすような狂笑と共に皮肉気な声が響き渡る。
その声に驚愕しないものなどこの場には居らず、誰もが山のようなコウガの巨躯、その向こう側へと視線を向けた。
そこでは、皮肉気な笑みを浮かべたテミスが、自らへと向けて振るわれた巨大なコウガの腕を、漆黒に輝くたった一振りの小枝のように細い片手剣で受け止めていた。
「ククッ……そんなにも不思議か? 私がお前の一撃を受け止めている事が」
「ヌッ……ムゥゥゥッ!!!」
「想像しなかったのか? 力自慢。お前達が人間を侮るように。無類の剛力を誇る自分よりも、更に強い力を持つ者が居る事をッ!!」
「ゴッ……がァッ……!?」
ギシギシ、ミシミシと。
テミスの握る剣と剥き出しになったコウガの爪が、不穏な音を立てて鍔迫り合いを演じるが、テミスは表情一つ変える事無く言葉を紡ぎ続けた後、遂にはコウガの腹へと鋭い蹴りを叩き込み、返す太刀でコウガの顔面を鋭く打ち付ける。
そして、猛然と突進した道を数歩後ずさるコウガの前で、テミスはその長い銀色の髪をなびかせながらヒラリと地面に着地すると、僅かに腰を落として静かに剣を構え直す。
「あっ……!!」
それを見たフリーディアは僅かに息を呑むと、嬉しさと不安が綯い交ぜになった気持ちで戦いを見守り続ける。テミスの取ったその構えはまさに、ここ数日フリーディアがテミスへと叩き込んでいた、彼女が得意とする守りの構えだった。
一方で、テミスから食らった反撃で正気を取り戻したのか、コウガは剣を構え直すテミスを睨み付けながら、素早く後ずさりをして地面に突き立てていた大太刀を拾い上げる。
「力で敵わぬのならば剣を……か? いいさ……幾らだろうと付き合ってやるとも。そして痛感しろ。お前達が寄る辺にしていた強さが、如何に脆く儚いものかを」
「ッ……!!! 調子に乗るなよ……このニンゲン風情がァッ……!!」
テミスはその様子をただ剣を構えた姿勢のまま眺めながら、皮肉気な口調で言葉を紡ぎ続けた。
だがコウガは、挑発するかのように投げかけられたテミスの言葉に、咆哮すると大太刀を構えて一気呵成に斬りかかったのだった。




