875話 傲慢の対価
「お前……俺の元に来る気は無いか?」
「っ……!!」
ピクリ。と。
コウガの問いを聞いた途端、それまでは全くの無反応だったテミスが、小さく肩を跳ねさせる。
そんな、僅かな動きをどう受け取ったのか、コウガはその口元に小さな笑みを浮かべると、胸を張って言葉を続けた。
「何……悪いようにはしない。たとえ戦う事ができずとも担える仕事はある。向こうで戦っているお前の仲間も、お前の家族とやらも一緒で構わない」
「…………」
「俺はお前のその目が気に入ったのだ。かつての獣人族と同じ燃えるような目が……。無論、俺達へのお前の怒りがそう簡単に収まるものでは無いと知っている。だがここは虐げられ、怒りを胸に立ち上がった者同士、肩を並べてみるのも悪くはあるまい?」
コウガは得意気にそう語ると、一息を吐いて自らの腕の中のテミスへと視線を落とす。
そこではテミスが、まるで天日に晒して乾くのを待つ洗い清めた衣服の如く、息も絶え絶えにコウガの腕へとしなだれかかっている。
「フム……。多少脆いが問題あるまい。お前であればリュウコ様も、きっと気に入ってくれるさ」
その姿を見て、コウガは僅かに顔を顰めた後、呟きと共にテミスの身体を肩へと担ぎ上げて立ち上がった。
だがあくまでも、その認識は獣人族を基準にしたものだった。
だからこそ、見落としたのだろう。本来、鍛えていない人間の身体程度であれば、いとも簡単に絞め殺せてしまうコウガの怪力に、ただの貧弱な人間であるはずのテミスの身体が、圧し潰れる事無く耐えきったという異常を。
「ッ……!!!!」
それは、テミスを担ぎ上げたコウガが立ち上がるべく、その巨体を大きく前へと傾がせた時だった。
乱雑にコウガの肩へと乗せられていたテミスの身体が最も安定したその瞬間。弱々しく瞑られていたテミスのその双眸が、ギラリと凶悪な光を灯して開かれる。
そして、身体ごと絞め殺されそうになろうとも、決して手放す事の無かった漆黒の剣を高々と振り上げ、その切先を無防備に晒されたコウガの首筋へと振り下ろした。
「ヌッ――!?」
しかし、テミスの振るった刃がコウガの首に突き立つ刹那。
自らの肩の上で動いたテミスの攻撃に気付いたコウガが、反射的にその身を捩らせる。
結果。急所である首筋を狙ったテミスの一撃はその標的を外し、漆黒の剣はコウガの背中へと深々と突き立てられた。
「――グッ……ガアアアアアァァァァッッッ!?!?」
「クゥッ……」
直後、その身を襲った痛みは、皮や肉を裂かれるものとは比べ物になるはずも無く、背から胸を貫かれたコウガはテミスを担いだままその身を大きく反らし、襲い来る激痛に悲鳴を上げる。
それは同時に、コウガが肩に担いでいたテミスの身体を振り落とす事を意味していた。だが、テミスはコウガの背に深々と突き立った己が剣にしがみ付き、傷口を抉ると共に更なる激痛をコウガに味あわせた。
「……。クハッ……フフ……ハハハハッ!! こちらが黙って聞いていれば好き勝手な事を……」
スタリ……。と。
テミスはクスクスと狂笑を漏らしながら、痛みに悶えるコウガの肩へ飛び乗ると、片手で唇の端から滴っていた血の筋を拭いあげる。
そして、氷のように冷たい眼差しで足元のコウガを睨み付け、吐き捨てるように言葉を続ける。
「圧倒的な力を見せ付け、情けをかけたかのように見せかけて従わせる……。それで取り繕ったつもりか? 馬鹿が……お前が今、私にして見せた行為こそを、人は略奪と呼ぶのだッ!!」
「ッ……!! 何故ッ……!? お前は……選ばれたのだぞ!! 我等と共に来る資格があると……その弱さ故に虐げられ、奪われる定めの中にある人間達の中からッ……!」
「笑わせるな……下郎が」
「ッ……!! ぐああああぁぁぁぁぁぁッッ!?!?」
テミスの紡ぐ冷淡な声にコウガが言葉を返すと、テミスは短い返答と共に手元の剣を捩じり上げた。
深々と突き立った傷口に走る痛みに耐え切れず、コウガの大きな口から血の泡と共に迸った慟哭が、ビリビリと周囲の木々を揺らす。
「一つだけ……お前の勘違いを正しておこう」
しかし、テミスは苦痛に悶え喘ぐコウガなど歯牙にもかけず、ぞぷりという嫌な音と共に自らの剣を引き抜いた後、自らが足場としている彼の肩を蹴ってヒラリとその眼前に着地して鋭く睨み付ける。
そして、刃先から根元までコウガの血で染まった剣を、甲高い風切り音を立てて血払いすると、その切先をコウガへ向け、地面とは水平に構えて口を開いた。
「人間は弱くなどない。故に、虐げられる謂れも奪われる通りも無い。そして、強き者が奪い、弱き者が奪われる貴様等の理に従うのならば……殺されるのはお前達の方だッ!!!」
無慈悲に。そして、怒りを込めて。
テミスは、深手を負ってヨロヨロとその巨体を揺らめかせるコウガへ口上を叩きつけると、コウガに止めの一撃を加えるべく、力を込めた脚で地面を蹴って、限界まで引き絞った弓から放たれる矢の如く、構えた剣を突き出したのだった。




