874話 越えられぬ壁
「……確かに、お前の剣は鋭い」
傍らから叫び声や怒声が響く中で、コウガはテミスに真正面から向き合うと、静かに語りはじめる。
「重心の移動や剣戟の冴えも敵ながら惚れ惚れするほどの腕前だ。それになによりも、敵を斬り殺すという確固たる意志……。覚悟と言い換える事もできるそれが、お前の剣には歴戦の勇士であるかと思わせる程に籠っていた」
「……理由になっていないな。この期に及んで命乞いか?」
「ククッ……そう急くな。確かにお前の剣は一級品だ。だが悲しいかな……お前はただの人間だった」
「っ……!!」
心の底から嘆くように。コウガはテミスを見つめる視線に憐れみすら込めながら、ゆっくりと真実を告げた。
この言葉に、一片たりとも嘘は無かった。
事実。コウガの目から見ても、テミスの剣の腕は確かなものだった。だが彼女が積み上げた研鑽以上にただ、獣人族として鍛え上げたこの頑強な肉の鎧が、刃を阻む毛皮が、堅牢な骨が上回っただけの事。
「仮にお前が俺のような虎人族だったならば……。お前の暮らすあの町にも居る魔族だったならば……こうはならなかっただろう」
「…………。ハッ……だから何だ? たとえお前の言う事が真実だったとして、その程度の事で私が諦めるとでも?」
「いや……到底諦めんだろうな……」
愁いを帯びた微笑を漂わせて語るコウガの言葉に、テミスは頬を皮肉気に釣り上げて笑みを浮かべると、吐き捨てるように問いを返した。
そうだ。相対した敵が強大であったことなど、今まで幾らでもあった。底知れぬ力を持つギルティア、街を瓦礫の山へ変える程の力を持つアーサー。だが私は今までただの一度たりとも、己よりも敵が強かったからといって逃げ出した事は無い。
「……あぁ。たとえ幾千、幾万とかかろうとも構うものか。幸い、お前が弱いとのたまった私の剣でも肉は断てる。ならばまずは、全身の皮と肉を削ぎ落とすまで」
「フゥ……残念だが……それも無理な話だ」
「――っ!?」
小さなため息と共にコウガが言葉を紡いだ瞬間、一瞬にしてその姿がテミスの視界から消え失せる。
突如として起こった異変にテミスが鋭く息を呑んだ刹那。テミスは自らの身体が背後から何者かの手によって捕えられたのを感じた。
状況からして、テミスの身体を捕らえたのがコウガだという事は理解できたが、その迅速極まる動きを、テミスは一片たりとも捉える事ができなかった。
「な……がッ……!?」
「暴れるな。また逆上されてはおちおち話もできんからな。……だがこれが、お前と俺の間にそびえ立つ、決して埋まり得ぬ力の差だ」
「グッ……!! クソッ……!?」
テミスは言葉と共に間近から吹きかかる酷く獣臭い吐息に顔を顰めながら、拘束を脱するべく全力の力を込めてもがき始めた。
しかし、両腕ごと背後から抱き上げるかのようにテミスの身体を捕らえた剛腕に通じる事は無く、固い軍靴の底で蹴り付けた大木の如き脚も、微動だにする事は無い。
「思えば……お前の名すら聞いていなかったな……何と言う?」
「ハッ……。貴様のような下衆に名乗るなど無いわ」
「プ……クク……この状況でそんな大口を叩けるとは……。余程の馬鹿か、もしくはこの場を脱する秘策を持つ勇者か……。だが……」
「ガッ――!? ハッ……ぅあッ……」
テミスがコウガの問いを鼻で笑い飛ばすと、コウガは喉と肩を震わせて笑い声をあげた。
そしてその直後。
テミスを拘束していた両腕に力が籠り、メキメキと音を立ててその身体を締め上げていく。
「どちらにしても、その答えは芳しく無いな」
「ゥぐッ……ぐぁ……」
「おっと……いかん。刀を振るうならばいざ知らず、どうにもこういった力加減というのは難しいな」
まるで万力のような怪力で締め上げられたテミスの喉から、苦悶の声とも吐息ともつかない音が漏れ出すと、コウガは片眉を吊り上げ、事も無げに言葉を紡ぐ。
そしてその言葉と共に、テミスの身体を締め上げ続けていた力を緩めると、テミスは糸の切れた人形のように、ぐったりと脱力してコウガの腕にぶら下がった。
「だがまぁ……これはこれで大人しくて良いか。それで……俺が抗う事無く、お前に斬られ続けた理由……だったな……」
「っ…………」
テミスを腕の中に収めたまま、コウガはそう言葉を続けながら地面に腰を下ろすと、まるで子供でも抱きかかえるように、テミスの身体を自らの膝の上へと置いて長く息を吐く。
その後、その五体を拘束するように抱きかかえた己が腕にその身を預け、浅い呼吸を繰り返すテミスを見下ろすと、一つの問いを静かに口にしたのだった。




