873話 憤怒の暴刃
「来いッ!! 俺のこの身体……貴様の気が済むまで刻んで見せよッ!!」
その怒声には、ともすれば浴びせられただけでも委縮してしまいそうな程の気迫が込められていた。
己が身を守る武器を手放し、両の手は握られる事無く開いている。だというのに、全身から放たれる圧力はさらに増していて……。
コウガと相対するテミスがそれに気付かぬはずも無い。だが、並外れた怒りによって思考の灼け付いたテミスは止まることなく、全霊を懸けてコウガを斬るべく疾駆する。
「…………」
「ハァァァァッッ!!」
しかし、彼自身が吐いたその言葉の通り。
怒りと殺意をまき散らすテミスが肉薄しても、コウガは軽く開いた腕を動かす事も、身体を開いて仁王立ちしたその足も、ピクリとも動かす事は無かった。
「シィッ……!!!」
直後。
ドズリ……。と。鋭く息を吐きながら振るわれたテミスの剣が、甲高い風切り音と共にコウガの身体へ深々とめり込んだ。
その鋭い刃は、コウガの体表を覆う針金のような毛皮を、その下に潜む鋼の如く鍛え上げられた筋肉を切り裂き、コツリという軽い音を立てて動きを止める。
「グッ……ムッ……ゥゥ……」
流石のコウガといえども、その身体を切り裂かれては堪え切れず、ギシリと固く食いしばった歯の隙間から、微かに苦し気なうめき声漏れた。
同時に、テミスの振るった漆黒の剣が食い込んだ傷口からは、さながら小さな噴水のように勢いよく血が噴き上がっていた。
「なっ……!?」
その眼前で、テミスは胸の内を焦がしていた怒りすらも吹き飛ばす程の驚愕に息を呑み、目を見開いてそれを露にした。
今に一撃は、如何に私が弱くなっているとはいえ、間違い無く致命傷となり得たはずだ。
踏み込みは上々、振るった剣閃も決して鈍いものでは無い。
更に重ねて、テミスが斬り付けたのは肩口。如何に頑強な肉体を持つ獣人族といえど、まともに受ければ無事で済むはずが無かった。
だというのに。
「馬鹿……な……」
確かに、テミスの剣はコウガの身体に深々と食い込み、その刀身を余すことなく血に濡らしている。
だが、それだけなのだ。
刃を振り抜けたわけでも、身体を両断出来た訳でも無く。漆黒の刃は今、肉と皮を切り裂いただけで止まっている。
「フゥゥゥゥッッ……そんなものか?」
「何ッ……!?」
「お前の怒りは、この程度で収まったのかと訊いているんだ」
「ふざッ――」
大きく息を吐いた後、コウガは静かな声で驚愕するテミスへ問いかけると、自らの肉体に食い込んだ漆黒の剣を示して言葉を重ねる。
その瞬間。
理性に光を取り戻していたテミスの瞳が再び怒りに染まり、それは言葉を紡ぐよりも先に、明確な殺意という形を取ってコウガへと襲い掛かった。
「――ッけるなァァァァッッッッ!!!」
滾る激情を吐き出しながら、テミスは怒りに任せてコウガの身体に食い込んでいた剣を振り抜き、幾度となく切り刻む。
間近から振るわれた斬撃はコウガの腕を、脚を、腹を、顔を……その身体中を余す事無く切り裂いたが、コウガはテミスの嵐のような攻撃を、一撃たりとも躱す事も、守る事も無く受け続けていた。
「っ……!! ハァッ……ハァッ……ッ……!!」
「グゥッ……ムゥ……ゥゥッ……」
そんな乱劇とも言える攻撃が、数分ほど続いた頃。
一瞬たりとも休む事なく、剣を振るい続けていたテミスが、ぜいぜいと肩で息をしながら後ろへと跳び下がった。
その手に携えた漆黒の剣は、間近で返り血を浴び続けたテミスの身体同様に鮮血で覆われ、切っ先からはポタポタと血の滴が滴っている。
「ハッ……ハァッ……お前……何故ッ……!!」
そしてテミスは、己の猛攻が止まると同時に、ズシリと鈍重な音を立てて膝を付いたコウガへ、息も絶え絶えに問いを投げかけた。
「フッ……漸くまともに口を利いたな……。しかし、その問いは何を訊いている? 俺がこうして生きている事か? それとも俺がお前の攻撃を、抵抗する事無く受け続けている事か?」
テミスの問いに、膝を付いたコウガは全身から凄まじい量の血を流しながらも、薄い笑みを浮かべて言葉を返す。
その表情からは、夥しい程の流血を伴っているとは思えない程の余裕が漂っており、それを証明するかのように、コウガは言葉を紡ぎながらゆっくりと立ち上がってみせた。
「そんなものッ……どちらもに決まって……いるだろうッ!!」
「クク……剛毅な事だ……」
一方で、未だに荒い呼吸を繰り返すテミスが、息も絶え絶えにそう答えると、コウガは愉し気に喉を鳴らして笑った後、ゆっくりと口を開いたのだった。




