870話 一抹の理性
「っ……!! いけないっ……!!」
テミスとコウガ。真正面から睨み合う二人の間に漂う緊張感が、ビリビリと肌に感じ取れる程に高まる中。
フリーディアはテミスの背後で、地面に倒れ伏したシズクを庇いながら、反射的に小さな悲鳴を上げていた。
誰がどう見ても、今のテミスは冷静じゃない。彼女の性格を考えれば、すぐにでも斬りかかっていってしまうだろう。
けれど、周囲で状況を眺める盗賊たちとは渡り合えたとはいえ、今のテミスは本調子ではないのだ。それに加えて、テミスの眼前にそびえ立つ大男は、フリーディアの目から見てもかなりの手練れであることが見て取れる。
本調子のテミスならばいざ知らす、不調続きの……しかも頭に血が上った状態の彼女では、万に一つの勝ち目も無いだろう。
「テミスッ……!!」
このままではまずいッ……!! と。
即座にそう判断したフリーディアは剣を抜き放ち、テミスへ加勢すべく駆け出そうと脚へ力を籠めた。
だが、その直後。
「止せ。フリーディア」
「えっ……?」
テミスは背後のフリーディアをふり返る事無くそう告げると、コウガに向けて剣を構えたまま言葉を続けた。
「手当てが終わったのならば丁度良い、そのままシズクを護っていろ」
「無茶よテミスッ!! 貴女は――」
「――何処まで能天気なんだ? お前は。まさか、一対一だの正々堂々などという、畜生以下の獣が囀る戯れ言を信じている訳ではあるまいな?」
「っ……!!」
テミスの言葉は、まるで周囲を囲う盗賊たちや、眼前で構えるコウガへと聞かせるかのごとく高らかと語られ、同時にその表情も蝋燭が溶けたかのように歪んだ笑みへと変化していく。
「所詮は弱い者虐め専門の盗賊。自分達が苦しくなればいとも簡単に手の平を返すだろうさ。それに……? 自らに都合のいい口上を垂れる事だけはいっちょ前のそこの男が、それを咎めるとも思えん」
「な……にィ……ッッ!!」
「もう……我慢できねぇッ!!」
更にテミスが挑発の言葉を重ねると、周囲を囲う盗賊たちの間から、怒りの声と共に武器を抜き放つ音が聞こえてくる。
しかしテミスの言葉通り、眼前のコウガがそれを咎めるそぶりは無く、肩へ担いだ抜き身の大太刀を携えながら、黙ってテミスを睨み付けているだけだった。
「これで、能天気なお前でもわかりやすいだろう? お前の役目はシズクを守る事と、周りの雑魚を片付ける事だ」
「テミス!! 貴女ねぇッ……!!」
「…………」
「ッ……!!」
そんな、避けられ得る戦いすらも呼び寄せるかのようなテミスの言動を諫めるべく、眉を顰めたフリーディアがテミスへ向けて、一歩を踏み出した瞬間。
フリーディアの全身を、余すことなく刺し貫くかのような感覚が走り抜けた後、遅れてじっとりとした冷や汗が吹き出て来る。
「――いい加減」
「えっ……?」
よろり……。と。
テミスから放たれる殺意に中てられたフリーディアが、踏み出した足でそのまま一歩を退いた時。
微かに全身を震わせるフリーディアの耳が、呟くような微かな声で紡がれるテミスの言葉を捉えた。
「いい加減……我慢の限界なんだよ」
そう、震える言葉を必死に紡ぎながら、テミスは狂ったように煮え滾り、今にも飛び出してしまいそうな身体を全力で抑え付けていた。
自分は今、怒りに呑まれているのだろう。テミスの中で辛うじて残った理性がそう判断する。しかしそれを理解して尚、燃え盛る怒りと溶岩のような憎しみが、今も理性を焼き焦がしている。
もう……良いだろうか?
あまりの怒りでチカチカと明滅する視界の中で、テミスは己が中の僅かな理性へと問いかけた。
シズクへの処置とその護り……連中が扱うような姑息で汚い手にさえ騙されることが無ければ、フリーディア程の腕があれば楽にこなせるはずだ。
「フ……ククッ……」
テミスは自らの中で、理性と呼ばれる何かが、ぴきり。ぱきり。と音を立てて崩れていく音を聞きながら、その口元に安堵の狂笑を浮かべた。
私が、弱くなっていてよかった。
同時に、怒りと憎悪で塗りつぶされていく心の底からそう思いながら、テミスは万感の思いで激情へと己が体を明け渡す。
もしも私が、十全に戦う事のできる力を持ち得たままであったのなら。私は、一瞬たりとも迷うことなくこの激情に身を任せて力を振るったのだろう。
この僅かに残った理性はいわば、フリーディアの優しい心が私に植え付けた、護るという感情の賜物なのだと言える。
ならば……その役目は果たされた。
フリーディアに警戒を促す事ができ、彼女の手によってシズクは守られる。
「……殺す」
そう確信した瞬間。
テミスは抑えきれぬ興奮に上ずった声でボソリと呟きを漏らすと、剣を構えたまま深く体を沈め、一直線にコウガへ向けて飛び込んでいったのだった。




