866話 繋がれた希望
顔に吹きかかる吐息が熱い。
察するに、かなりの距離を全速力で駆けてきたのだろう。ゼイゼイと激しく繰り返される呼吸は荒く、テミスの身体に密着したシズクの胸からは、ドクドクと激しい鼓動が伝わってくる。
だが、触れ合う肌はまるで氷のように冷たく、シズクの身体も小刻みに震えていた。
「ぅ……ぁ……」
「何だ!? 何があったッ!?」
テミスの上に覆い被さるように倒れ伏したシズクは、最早意識すら朦朧としているのか、うわ言のように何かを口の中でぶつぶつと呟き続けている。
それは、シズクの身体の下から何とか這い出そうともがくテミスがその肩を掴んで揺さぶって尚、止まる事無く続けられていた。
「テミス!! 動かさないで!!」
「だがッ……!!?」
「とにかく手当を……ホラ、いったん私が彼女の身体を支えるから……」
「む……。んっ……クッ……」
そこへ叫びと共に駆け寄ったフリーディアは、傍らの地面に剣を置いて、手早く脱力しきったシズクの身体を支える。すると、いくらもがこうとも絡まってしまったかの如く動かなかったテミスの身体が少しづつ動き始め、テミスはズルズルと絞り出すようにシズクの下敷きとなった己が体を引き抜き始めた。
「……い……は…………ない……」
「ンッ――?」
そんな折。
ゆっくりと這い出すテミスの耳が、ブツブツと呟かれ続けるシズクの言葉の端を捉えると、テミスはピクリと身を跳ねさせてその場で動きを止める。
「テミス! 早くッ……!!」
「シッ……! 少し黙れ!」
脱出の手を止めたテミスに、シズクの身体を支えるフリーディアが焦れたように声をあげた。しかし、テミスは鋭い口調でその言葉を封じると、自らの間近で僅かに動き続けるシズクの口へ、意識を集中して耳を近付ける。
「お願……私は……敵じゃ……ない……」
「っ――!!」
「テミスッッ!!」
「うるさいッ!! 黙れッ!!」
すると、先程までは辛うじて言葉の端が聞き取れる程度であったシズクのうわ言が、必死の訴えとなってテミスの耳へと飛び込んできた。
だが、苛立ちすら滲んだ声で急かすフリーディアの声が呟きを掻き消し、テミスは再び吠えるようにフリーディアを怒鳴り付ける。
確かに、傷付いたシズクの手当てをするのは重要事項だ。
けれど、当の本人がこんな姿になってまで必死で伝えようとする言葉を無碍にして良いはずも無い。
そう判断したテミスは、再びシズクの口元へと耳を近付けると、目を瞑って全神経を耳へと集中させた。
「伝えて……拠点が、この先……お願いッ……ギルファーは……友好……を……私は……どうなっても……ッ!? ――ゴボッ!!」
「……っ!!!」
必死で紡がれ続けるシズクの言葉をテミスが聞いた瞬間。
間近にまで近付けられていたテミスの顔に、苦し気に言葉を途切れさせたシズクがごぼりと血の塊を吐き出した。
無論。テミスは横顔に吐き出された血の塊を浴びる事となったが、テミスは顔面に降りかかった血など意にも解さぬかのように、静かに目を開く。
「その想い。確かに受け取った」
そして……。
ゆっくり、そしてはっきりと。
テミスは自らの白銀の髪に、吐きかけられた血をポタポタと垂らしながらも、力強い言葉をシズクに返した。
そして、柔らかな微笑みを浮かべた後、テミスは再び脚に力を込めて地面を蹴ると、ズルリとシズクの身体の下から己の身体を引き摺り出す。
「フリーディア……シズクの手当を頼めるか?」
身体を引き抜くと同時に、テミスはシズクと衝突した際に傍らに投げ出していた自らの剣を拾い上げながら、静かな声でフリーディアへと問いかけた。
本来ならば、問いかける間も無くテミスも手当てをするべきなのだろう。能力が揺らいでいるとはいえ、それくらいの知識は持っている。
だが、手当の為の道具すら持っていない今のテミスでは、これ程までの深手に対してできる事など殆ど無い。
加えてテミスの持つ応急手当の知識では、切り傷や擦り傷の基本的な処置から骨折程度までがせいぜいで、こんな深い刀傷の手当の仕方など知る由も無かった。
「えぇ……勿論よ。私は、すぐにでも手当をしようとしていたのだけれど――」
「――この先に、何やら拠点があるらしい。恐らくは件の盗賊共だろう」
そんなテミスの問いかけに、フリーディアはじっとりとした視線を向けながら頷くと、先程怒鳴り付けたお返しとばかりに嫌味を添えた。
しかし、テミスは紡がれる嫌味を冷静な口調でバッサリと切り捨て、地面に伏したシズクの傍らに膝を付いたフリーディアをふり返って言葉を続ける。
「拠点を見付けて殴り込んだか……もしくは見付かったか。どんな経緯で傷を負ったのかは知らんが、追手が居るのは間違い無いはずだ」
「っ……!! でも、貴女今ッ……!!」
「問題無い。丁度今しがた、加減してやる理由も無くなった」
テミスの言葉に、シズクの応急処置を始めたフリーディアが言葉を詰まらせて顔を跳ねさせた。
だが、テミスはニヤリと不敵な笑みを浮かべて微笑むと、遠くから聞こえ始めた怒声と足音にゆらりと身体を向けたのだった。




