863話 先を行く者
同時刻。
テミス達が休息を取っている場所から更に森の奥深く。既にファントの勢力圏からは抜け、魔王領へと差し掛かった場所。
そこに存在する切り立った崖に穿たれた洞穴を見つめながら、シズクは独り闇の中に身を潜めていた。
「っ……。こんな所に……」
シズクは怠さと痛みを以て疲労を訴える身体を無視すると、下草の中に伏せた身を僅かに持ち上げて周囲を探る。
同時に、このような絶好の位置に拠点を築く敵の手腕に、内心で舌を巻いていた。
現在、融和都市ファントと魔王軍は良好な関係を築いており、両者の領地や勢力圏の境目はあってないようなものだ。
だが仮にその関係が崩れた時。この場所は丁度両者の力が及ぶ狭間の場所とも言える位置……良からぬことを企む第三者が身を潜めるには、これ以上ない程にうってつけの場所だろう。
しかも、森の奥深くに位置するこの洞窟ならば、強靭な肉体と旺盛な体力を誇る獣人族の利点を十全に生かす事ができ、まさに誂えたかのように最適な環境だ。
「さて……どうしますか……」
胸の内でそんな事を思いながら注意深く周囲を探った後、シズクは再び暗がりの藪の中に身を伏せて独りごちる。
洞窟の入り口には灯りという灯りは設えられておらず、門番が如く待ち構えている見張りの兵も居ない。
ともすれば、一見しただけではただの洞窟にも見える訳だが、シズクにはここがアリーシャを襲った盗賊たちの拠点であると確信していた。
「敵は未知数……ですが、あの女がかなりの深手を負っているのは間違いなさそうですね……」
シズクは自らの傍らに点々と滴る血を一瞥すると、自らのもぎ取った戦果に小さく息を吐いた。
シズクとて、何も無暗に森の中を探し回り、この場所に辿り着いた訳ではない。
街道まで逃げ延びていたアリーシャの危機を救った後、意識を失っていた彼女をファントの衛兵に預けると、シズクは即座に龍子と戦った森の中へと踵を返したのだ。
そこには既に龍子の姿は無く、代わりにここまで点々と続く血の跡が残されており、シズクはそれを辿ってこの場所まで辿り着いた訳なのだが……。
「フム……」
カチャリ……と。シズクは腰に提げている刀へ手を添えると、息を潜めたまま思考を巡らせる。
龍子の言が正しければ、ファントが警戒態勢を敷いた原因は彼女たちにある。それは、シズクにとって許し難いことであり、同時に確かめなければならない事を新たに生み出していた。
だが、最高戦力であろう龍子が負傷しているとはいえ、敵の総力が定かでないうえに、シズクは単身で疲弊している。戦闘にまで発展する可能性を考えるのならば、このまま乗り込むのは些か無謀だともいえるだろう。
「っ……ですが……」
その事実を冷静に理解して尚、シズクは唇を噛み締めて苦し気にうめき声を漏らす。
助力を求めようにも、シズクは単身だ。それに、今更ファントの者達に声をかけた所で、彼等が町の主であるテミスに闇討ちを仕掛けた私の要請に応えるとは思えない。
それは仮に、自らの立場と正体を明かす事まで鑑みたとしても、獣人族である自分が失った信頼を回復できるものとは思えなかった。
「ならば……っ――!?」
もう、賭けるしか無い。そう判断したシズクが身体に力を籠め、身を隠していた茂みの中から這い出ようとした瞬間。
シズクが警戒し続けていた洞窟の中から、獣人の男が二人、何やらいがみ合うように言葉を交わしながら、ゆっくりとした足取りで歩み出て来る。
「――るさねぇ!! 見付けたら絶対にギタギタのメタメタにしてブッ殺してやる!!」
「止めておけ。姉御が手傷を負うような相手だ。お前が敵う訳が無い」
「ンなこたぁわかってらァ!! でもやるんだよッ!! 無理でも何とかするのが男だろうがッ!!」
「喚くな。お前もまだ全快していないんだ……今は、与えられた任務を全うする事を考えろ」
「チッ……!! アイツらも調子コいてくれた礼に殺してやらねえとな……」
その話の内容から、シズクはこの二人が盗賊の一味であり、先程から喚き散らしている方の男が、本調子でない事を聴き取っていた。
どんな命令を下されたかは知らないが、相手は手負いを含めた二人……。下手に行動を起こされる前に、奇襲をかけて始末してしまおうか……?
そう考えたシズクが、地面に伏せた格好のまま静かに腰の刀の鯉口を切った時だった。
「っ……!!」
「っ――!?」
ピクリ。と。
大声で言葉を交わしていた筈の二人の耳が揺れ動き、その視線が一直線にシズクの潜んでいる茂みへと突き刺さる。
「なァ……? 聞こえたか?」
「あぁ。警戒しろ」
同時に、粗暴だったはずの二人の表情が引き締まり、鉤爪とダガーを抜き放つと、一直線にシズクの方へと向かって歩み始めた。
「ッ……!!!!」
やるしかない。
着実に自らへと近付いてくる二人を見て、シズクは瞬時にそう判断をすると、身を潜めていた茂みの中から飛び出すと同時に刀を抜き放ち、猛然と斬りかかったのだった。




