860話 静かなる激怒
「…………」
マーサの宿屋。
その一階部分である、酒場と食事処を兼ねたホールは、宿泊客以外の者にも開放されており、連日賑やかな客たちの笑い声に満ち溢れていた。
しかし、今やその喧噪は見る影もなく。
鉛のように重たい閉塞感と、まるでその場に居る全員が炸裂寸前の爆弾でも抱えているかの如き、異様な緊張感に包まれている。
「っ……!!!」
そんな異常極まる雰囲気を醸し出す根源は、ホールの最奥。カウンターの設えられた客席に腰を下ろして黙り込んでいた。
キリキリキリキリ……。と。
静まり返ったこの空間に微かな歯ぎしりの音が響く度、ホールに集まった者達はビクリと肩を跳ねさせる。
彼等の視線が集まる先には、固く拳を握り締めたままこの部屋中に蔓延する程に濃密な殺気を垂れ流しにするテミスが、ただ静かに腰を落ち着けている。
「こんな時に黙り込むなんて、いったい――」
「――シッ!!」
「っ……!! スイマセン」
深刻な面持ちでテミスの言葉を待つ黒銀騎団の面々傍らで、フリーディア達白翼騎士団もまた肩を並べていた。
しかし、ファントに来て未だ日の浅い白翼の騎士達の緊張感は黒銀騎団のそれに比べて遥かに低く、時折コソコソと言葉を交わそうとしては、黒銀騎団の面々に負けず劣らず深刻な面持ちをしたフリーディアに鋭い注意を受けている。
「ったく……こんな雰囲気の中でよく文句なんて言えるわね……。命知らずなのかしら?」
「……サキュド。それはお前もだ」
そんな白翼騎士団の様子にポツリと言葉を零したサキュドに、マグヌスは直立不動でテミスへと注ぐ視線を動かさぬまま、静かな声でそれをたしなめる。
そもそも、事の重大さを十二分に理解している黒銀騎団の中で、そんな暢気な表情を覗かせている者などサキュドしか居らず、後の面々は多かれ少なかれ、これから始まるであろう、骨を折り砕き、肉引き裂いて血を啜る地獄の戦いに覚悟を固めていた。
「馬鹿ね。私は歓迎してるのよ。あんなに魅力的なテミス様……久しぶりだもの」
「ッ……!? サキュド……お前……ッ!!」
だが次の瞬間。
あっけらかんと放たれたっサキュドの言葉に、マグヌスを含めた周囲の者達は、背筋の凍るような思いで肩を跳ねさせてサキュドを睨み付けた後、思わず外したその視線をそろりそろりと恐る恐るテミスへと戻す。
「ハンッ……何よ皆して怖気付いて……ひうっ!?」
しかし、サキュドはそんな態度を見せる面々を挑発するように、呆れたと言わんばかりのため息を吐いて見せた。
けれど、その直後に鳴り響いた、ガタリとテミスが椅子を引く音に、流石のサキュドもその声が裏返る。
同時に、緊張感が薄れて焦れてきていた白翼騎士団の面々にも、ピシリと一気に緊張感が舞い戻ってくる。
それもその筈だ。
傷だらけのアリーシャがこの場に帰って来た時、最も衝撃を受け、最も取り乱していたのはこのテミスだったのだ。
そして遂に、怒りをその胸に呑み下し、ひとまずの平静を取り戻したらしきテミスの視線が、集結した者達を見渡した。
「全く……呆れた……」
「っ……!!!」
短い沈黙の後、テミスが静かに口を開くと、いつもと変わらぬ気怠げな口調であるにも関わらず、そこから放たれるピリピリとした殺気に、黒銀騎団・白翼騎士団両陣営の面々が無意識のうちに背筋を正す。
彼女の家族であるアリーシャがああも手酷く傷つけられたのだ、その怒りは計り知れない。少なくとも、アリーシャを傷付けた犯人を処断するまで止まる事は無いのだろう。
この場に集った誰もがそう思っていた。
だが……。
「我が姉ながら何と馬鹿な事を……あれ程言い聞かせていたというのに……。それも、店で手に入らなかった食材を手に入れるためだと? ハァ……全くもって嘆かわしい限りだ」
ひとたび口を開いたテミスから紡がれたのは、その胸の内に滾る灼熱の怒りを込めた殲滅の号令でも、森や草木ごと燃やし尽くして犯人を燻り出し、千々に引き裂けという命令でも無かった。
その内容はむしろ、傷付いたアリーシャの軽率さを非難するかの如きものであり、凪いだ湖畔の水面のように静かなテミスの目は、いつの間にか傍らのカウンターの上に放り出されている手提げ鞄へと静かに注がれていた。
「テ……テミス様……?」
「っ……!?」
その、明らかに異常な言動に、ざわざわとざわめき始める者達を代表して、テミスの前へと進み出たマグヌスが口を開く。
「……? なんだ?」
「どうか、我々にご指示を頂きたく思います。黒銀騎団・白翼騎士団共に全力出撃の準備が整っておりますが……」
「ン……あぁ……」
「…………」
しかし、返ってくるのはどうにも気の無い返事ばかりで。
ビリビリと肌を焦がす殺気とかけ離れた態度を取るテミスに、マグヌスは胸の内に言い知れぬ不安感を覚え始めた。
そして……。
「出撃準備など私は命じて居ないぞ。皆が気を配ってくれるのはありがたいが、今回の一件もこれまでと同様だ。我々のやる事は変わらんよ」
極めて冷静に、そしていつもと変わらぬ皮肉気な笑みを浮かべて、事も無げにそう言ってのけたテミスに、宿屋に集結した者達は何かを察したかのように息を呑むと、揃って敬礼をすると共に、二階へと消えていくその背を見送ったのだった。




