856話 弱き人の強き意志
一方その頃。
生い茂る下草を踏み分け、脱兎のごとく逃げ出したアリーシャは、ファントの町を目指して全力で疾走していた。
しかしその腕には、森の中で採集した沢山の食材たちが詰まったバックが抱えられており、アリーシャは時折張り出た木の根に躓きかけながらも、懸命にその脚を動かしている。
「ハッ……ハッ……ハッ……ッ……!!!」
胸の中が焼け焦げている。
アリーシャはそんな錯覚に陥りそうになる程の痛みを感じながらも、脚だけは動かし続けていた。
もっと早く。もっと前へ。
胸を焦がすような痛みは次第に喉へ、鼻の奥へとせり上がって来て、慣れない森の中の地面を駆け続けた脚が鈍い痛みを発し始める。
薄暗い森の中は視界が利かず、今駆けている方向が正しいのかさえもわからない。
けれど。アリーシャは一度たりとも立ち止まる事は無く、その甲斐もあってか背後から聞こえていた荒々しい怒声や、下草を踏みしめる音はかなり遠退いていた。
「ハア゛ッ……ッ……!! ッ……!! ッハ……!!!」
私はまた、何もできなかった。
意識すら霞みがかるほどの苦痛にもがきながら、アリーシャは今にも折れてしまいそうな心を奮い立たせる。
戦う術の拙い私があの場に居ては、シズクちゃんが全力で戦えない。
そう理解はしていても、あの場に共を置き去りにしてしまったという事実は、途方もない悲しみと悔しさとなってアリーシャの心を苛んでいた。
しかし、アリーシャはそんな思いすらも、己の身を苛む苦しみを退ける薪として心へ焚べ、限界をも超えて走り続けた。
「っぁ……!?」
瞬間。
前へと踏み出したアリーシャの足が、森の中の地面とは異なる感触を踏みつけ、木々によって覆われていた視界が一気に開ける。
そこに広がっていたのは、焦がれる程に求め続けた街道の景色で。視界の端にはファントの町を守る堅牢な防壁と、数多の客人を迎え入れる大きな門が映っていた。
「きゃぁっ――!?」
だが。
鬱蒼とした森を抜けた事で気が緩んだのか。もしくは、突如として固く踏み固められた街道の地面を踏み抜いたせいか。
視界の開けた街道へと飛び出た途端、全力で駆け抜けてきた速度をそのままに、アリーシャは足をもつれさせた。
小さな悲鳴と共にその小柄な体は宙へと放り出され、開けていた視界一杯に固い地面が広がる。
しかし、アリーシャは胸に抱きかかえたバックを手放す事は無く、勢いよく地面の上をゴロゴロと転がった。
「カッ……ッ……!!」
地面に打ち付けられた腕が、肘が、膝が擦れ、鋭い痛みがアリーシャを襲う。
けれど、自らの限界を超えて駆け続けてきたアリーシャに、悲鳴を上げる余裕など無く、その喉からは声なき悲鳴が掠れた音となって零れるのみだった。
――それでも。倒れる訳にはいかないッ!!!
ジャリィッ……。と。
アリーシャは口の中に広がる血の味を呑み下すと、歯を食いしばって立ち上がる。
今こうしている間も、シズクちゃんは戦っているんだッ!! あのすごく強そうな女の人と……。
なら、今の私にできる事はただ一つ。
一秒でも早くこの事を町に伝える事。そして、助けを連れて戻るんだッ!!
「テ……ミ……ッ……!!」
最早、アリーシャは胸の内に燃え滾る灼け付くような想いだけを糧に、ふらつきながらも一歩、また一歩とファントの町へと歩を進めていく。
所々破れた給仕服から覗く肌からは血が溢れ、汚れた服を赤く染めている。
だが、抱いたバックを投げ出す事も、膝を付いて休む事も無く、アリーシャは必死で、眼前にそびえる門を目指して進んでいく。
しかし……。
「ヒュゥ……残ァン念。ここで……行き止まりだ」
「ぁ……」
軽薄な言葉が響くと共に、街道の傍らの森の中から盗賊たちが次々と歩み出て来て、ファントへ向かうアリーシャの前へと立ちはだかった。
けれど、先頭で下卑た笑みを浮かべている男の息も上がっており、中には大きく肩を上下させて膝に手を付いている者も居た。
「っ……!!! 負けない……絶対ッ……!!」
「ゼェッ……ハッ……ァ……も……ダメ……だ……」
そんな盗賊たちを前に、逃げきれないと判断したアリーシャは、抱えていたバックを静かに地面へと下ろすと、スカートの中に仕込んでいたナイフを抜いて構えを取る。
ここまで追ってきた盗賊の数は三人。
しかし、アリーシャが言い放つと同時に、息を切らせていた一人が、ドサリと尻もちをついて地面の上に倒れ伏した。
これで、二対一。戦って勝てる相手ではないのは解っている。
でも……何とかこの場を切り抜けてあの門まで……。衛兵さん達が気付くくらいまで近付ければッ……!!
「ヘェ……? ヤるってか? 俺達と? そんなナリで?」
必死の形相でナイフを構えたアリーシャに、盗賊たちはニヤリと嗜虐的な笑みを浮かべて口を開くと、彼等もまた短剣を抜き放ち、見せ付けるようにして構えを取る。
だが、そんな粗末な脅しなど歯牙にもかけず、アリーシャは盗賊たちの隙を伺いながら、爛々と光らせた目を己の町へと向けていたのだった。




