852話 不穏な大冒険
ガサリ。ガサリ。と。
生い茂った下草を踏み分け、薄暗い森の中を進んでいく。
ゆっくりと歩を進めるシズクの視線の先では、前を進むアリーシャがヒラリヒラリと給仕服の裾をはためかせて、足早に歩を進めていた。
「ハァ……。何をしているんだ……私は……」
シズクはボソリと物憂げな口調で呟きを漏らしながら、胸の内に僅かに湧いた感嘆を仕舞いこんだ。数多の冒険者たちに踏みしめられた街道付近とはいえど、普通であればあのような給仕服で分け入れる場所ではない。
だというのに先程からアリーシャは、傍らから突き出る枝にその可愛らしい裾を引っ掛ける事も、まるで狙い澄ましたかのように隆起している木の根に蹴躓く事も無く、鼻歌まじりに森の中を突き進んでいた。
「シズクちゃん! 本当にありがとうッ! 助かっちゃった!」
「いえ……。大丈夫……です」
そんな場所であるにも関わらず、突如として朗らかな声と共にシズクを振り向いて声をあげるアリーシャに、シズクは背筋にうすら冷たいものを感じて目を僅かに見開きながらも、辛うじて言葉を返す。
同時に内心では、いつまでアリーシャに付き合っているのだ……と。シズクは自らの行いに呆れ果てていた。
「んふふっ! もうすぐ、もうすぐ着くからっ! 今日のお礼に今夜のごはん、オマケしちゃう!」
「それは……。っ……楽しみです」
否。あくまでこれは、アリーシャに対する礼なのだ。
満面の笑みで言葉を続けたアリーシャに、シズクは再び良心が疼くのを感じながら、胸の内から響く冷徹な己の声をねじ伏せる。
事実。ファントの町でも広く顔の知られているアリーシャのお陰もあり、その護衛であるシズクも大して調べられる事も無く、簡単に門を抜ける事ができた。
だからこそ。シズクは己自身が引き受けた、アリーシャの護衛という任務を放り出す気にはなれず、こうして時折アリーシャの能天気さに呆れながらも付き添っているのだ。
「フム……」
その一方で。
鋭敏に研ぎ澄まされたシズクの感覚は、先程から聞こえる妙な音を捉えていた。
その音はまるで、シズク達を見失わない程度の距離を取ったうえで、半ば取り囲むように二人を追ってきている。
「さて……いったいどちらでしょうか……」
「ん……? どうかしたの?」
「いえ、何も。あぁ……あと申し訳ありませんが、採集のお手伝いはできません。護衛が無防備に背を晒していては形無しですので」
「あははっ! そんなに怖い顔しなくても大丈夫だと思うけどねっ! でも、りょーかいだよ!」
「…………」
静かにそう告げるシズクに対し、アリーシャは底抜けに明るい笑い声をあげた後、クルクルと回転してから再び前を向いて歩き出した。
追跡者の存在も知らずに何を能天気な……と。そんなアリーシャにシズクは一瞬心がささくれ立つのを感じたが、即座に頭を左右に振って思考を切り替える。
アリーシャはただ、あの町に住んでいる宿屋の給仕なのだ。血なまぐさい戦闘や自らを狙う追跡者に気を配るなどという事はそもそも必要がない。
「っ……」
だが、そう考えたシズクが黙り込んだ前方では、つい先ほどまでシズクに輝かんばかりの笑顔を見せていたアリーシャが、青ざめた表情で周囲へと油断なく視線を走らせていた。
場所こそ定かではないけれど、嫌な感じがする人達が付いてきている。シズクの予測とは異なり、日々宿屋での給仕の仕事をこなすアリーシャは、人の気配を読む技術に秀でていた。
無論。気配を読むとはいっても、テミスやシズクのように白刃を躱す訳ではなく、主に酔っぱらったお客の助平な魔手を躱したり、迅速に注文を受けるために鍛えられた技術なのだが。
「だ……だいじょぶ……大丈夫ッ……!」
どうしてこんな事に……。
アリーシャはともすればまろび出てきそうになる恐怖を紛らわせるために口の中でぶつぶつと呟きを漏らした。
近頃、家に帰ってくるテミスは酷く機嫌が悪いし、なんだか町全体もピリピリとした空気が漂っている。
こんな時だからこそ、美味しい物を作って元気を出して貰おうと思っていた時に、テミスから数日宿を空けると伝え聞いていたシズクちゃんを見かけたから、勢いで頼んでみたんだけど……。
「まずった……かなぁ……?」
ドクドクと早鐘を打つ心臓の音を聞きながら、アリーシャはスカートの下に忍ばせた短剣に意識を向けると、密かに引き攣った笑みを浮かべたのだった。




