851話 温かな縁
信じられない。
それは、フリーディアの手によって拘束の解かれ、病院と呼ばれる治療院の役割を果たしているらしき建物から送り出されたシズクが抱いた最初の感想だった。
尤も、送り出されたと言っても正式な手順を踏んでいる訳ではなく、フリーディアの助力によって抜け出しただけなのだが。
「何なのですかね……一体……」
そう呟くと、シズクは相も変わらず賑やかなファントの街並みを見渡して、深めに被った外套の下で小さなため息を一つ吐く。
フリーディア曰く。貴女が安全に、そして心穏やかにこの町を見て回るため。らしいが、仮にもこの町の主であるテミスに闇討ちを仕掛けた相手に、刀や脇差をも含めた装備の全てを返すのはどうかと思う。
「やはり馬鹿なのか……あるいは……」
何かしらの企みがあるのか……。と。
シズクはひとりごちった自らの言葉の続きを胸の中にしまい込むと、注意深く周囲を見渡して気配を探った。
どちらにしても今は好機なのだ。私を解き放ってくれたフリーディアには申し訳ないけれど、この町の思惑を祖国へ伝えて注意を促さなくては取り返しの付かない事になる。
「っ……。少し離れたところに衛兵……けれど、こちらを見張っている訳じゃない……?」
ピクリ。ピクリ。と。
シズクは目深に被った外套の下で耳を動かしながら、同時にじくりと痛んだ良心を押し殺した。
この外套のせいでしっかりと聞き取る事はできないが、恐らく今は私に監視の目は付いていないだろう。
「よし……!」
ひとまずの安全を確認した後。シズクは胸に秘めた決意を固めながら、ファントの町を脱出するべく門へ向けて駆け出した。
賑やかな中央広場を抜け、活気に満ちた商店が並ぶ路地を通り過ぎる。数日の間とはいえ、この町の色々な場所を巡って見て回ったのだ。
今、私の駆けるこの道が、この町に来た時にあの心優しき衛兵と出会ったあの門へ続く一番の近道なのだ。
そんな、どこか後ろ髪を引かれるような一抹の寂しさを抱え、シズクが門へと続く最後の角を曲がった時だった。
「きゃっ……!?」
「――っ!?」
物思いに意識を裂いていたせいもあったのだろう。
シズクは交叉する路地の角を勢い良く曲がったその先に居た人影を躱し切れず、押し倒すような形でぶつかってしまう。
「す……すまない!! 少し急いでいたもので……」
「ううん。大丈夫。ごめんね? 私もちょっとのんびり歩いていたから」
「ぁ……」
シズクが折り重なってしまった体を慌てて離すと、道に突っ伏すように倒れていた少女が朗らかな言葉と共に立ち上がった。
同時に、目の前で立ち上がる少女を視界に捉えたシズクは、言葉を失って驚きを露わにする。
「怪我は大丈夫? って……あれ? シズクちゃん?」
「っ……!! アリーシャさん……」
にっこりと笑顔を浮かべて立ち上がった少女の顔は、この町に来てから日の浅いシズクにとっても見知ったもので。
だからこそ、それに気付いたシズクは警戒心を露わにしてゆっくりと後ずさった。
だが……。
「丁度良かったッ!! ねぇ、シズクちゃんこれから少し時間あるかな? ちょっとお願いしたい事があるんだけど……」
「え……?」
直後に発せられたのは、いつもと変わらない明るい声だった。
どうせ浴びせられるのは罵声か悲鳴だろう。そう思っていたからこそ、まるで以前とまるで変わらないアリーシャの態度は、シズクにとって少なく無い衝撃であり。
そのせいもあってか、シズクは逃れるには十分な距離があったにも関わらず、満面の笑顔で飛び込んできたアリーシャにがっしりと手を握られてしまう。
「食材調達……付き合ってくれないかなッ!? いつもはお店で買うんだけど、冒険者さんの数が減っちゃったせいか、香草とかキノコとか売り切れちゃってて……」
「フン……。んっ……!? いや、待って下さい。付き合ってって貴女まさか、自分で採りに行くつもりですか!?」
「え……? うん。そうだけど?」
苦笑いを浮かべて語るアリーシャの言葉に、シズクは胸の中で、テミスに向けて密かに鼻を鳴らした。
しかしその直後、湧き出た昏い感情はアリーシャの言葉によって跡形もなく吹き飛ばされ、シズクは驚愕に目を見開いて目の前に立つアリーシャを凝視する。
そこには、いつもと変わらに給仕服に身を包み、大きな手提げ鞄を持ったアリーシャが不思議そうに首を傾げており、シズクはとても採取に向かうとは思えないその格好に、微かな眩暈を覚えながら口を開く。
「最近……この辺りは何かと物騒ですよ? そんな中、町の外まで向かうのは危険過ぎると思いますが……」
「ふふっ……知ってるわ。けど、大丈夫よ。私は旅人さんや商人さんみたいに、お金になるような高価なものも持っていないし、冒険者さんみたいに遠くまで行かないもの。でも一人だと少しだけ不安なんだ。だから……お願いできないかな?」
しかし、シズクの問いにアリーシャは満面の笑顔で言葉を返し、少しはにかんだ表情を覗かせながら問いを重ねる。
そこには、フリーディアと同様にシズクを獣人族であると知りながらも、疑惑や警戒といった嫌な感情は含まれていなくて……。
「ハァ……わかりました。引き受けましょう」
ファントの町の住人であるアリーシャと一緒ならば、あの門を潜るのもいくらかは容易になるかもしれない。
シズクは内心で無理矢理に理由をこじつけながら、ため息を零しながらアリーシャへコクリと頷いたのだった。




