850話 まずは一歩、歩み寄って
「さて……まずは何から話そうかしら……」
カチャリ。と。
戦慄で身を凍らせたシズクの前で、フリーディアは優美にお茶の準備を済ませると、たおやかな笑みを湛えて静かに口を開いた。
だが、お茶の準備をするその間にすらも一分の隙は無く、シズクは改めてフリーディアの実力を思い知っていた。
「……好きにしたらいい」
「フフッ……そう? なら、まずは貴女が取り違えている私たちの思いからね」
「フン……」
ニッコリと微笑んでそう告げるフリーディアに、シズクは小さく鼻を鳴らすと、自らの前で湯気をあげているマグカップに手を伸ばす。
本来ならば、拘束された状態で出された物に手を付けるなど言語道断なのだが、死のうとしていた私を今更罠にかける意味も無いだろう。
「まず、私達にあなたたち獣人族を虐げる意思は無いわ。ああ見えてテミスだって、今回命令を出すのにかなり悩んでいたみたいだったし……」
「……戯れ言です。如何な理由があったとしても、我々が切り捨てられたことに変わりは無いでしょう」
「ん……まぁ、それはそう……なんだけれどね」
フリーディアの持参した紅茶で唇を示した後、シズクは彼女の言葉を真正面から斬り伏せてみせた。
そう。たとえそこに何かしらの意図があったのだとしても、我等の誇りを、自由を犯した事実は変わらないのだ。
そんな頑なな拒絶を見せるシズクに対して、フリーディアは困ったように笑みを浮かべると、自らも湯気の上がる紅茶に口を付けて一息を吐く。
そして、フリーディアはその瞳に少しだけ悲し気な色を浮かべ、再び語り始める。
「……でもそれが、自分が治める町の人たちの命と……平穏と引き換えだったら?」
「だから何だというのです? 領主が領民を守るのは義務。無関係な獣人族を巻き込んでいる時点で、領地を治める資格があるとは思えません」
「っ……!! 一連の騒動を起こしている犯人が、獣人族の人たちによるものだとしても?」
「なにっ……!?」
嘲笑すら浮かべて言葉を紡ぐシズクに、フリーディアはピクリと眉を跳ねさせると、それまでは温かく包み込むように柔らかだったその口調が僅かに棘を帯びる。
だが、告げられた言葉に気を取られたシズクがそれに気付く事は無く、シズクは鋭く息を呑んでフリーディアを睨み付けた。
「馬鹿な!! あり得ない!! 我等獣人族は誇り高き一族ッ! 正々堂々と戦う事はあっても、力無き弱者から平穏を奪うなどあり得ませんッ!!!」
「それは、この町に来た時に貴女も見たはずでしょう? 余程の騒動を起こさない限り、衛兵の皆が出て行くなんて事にはならないわ……特にこの町はね」
「けれどっ……!!」
「それに、あなた達は酷く怒っているみたいだけれど、獣人族の人たちは毛が一つしていない筈よ? よりにもよってテミスに噛みついたシズク……貴女を除いてね」
「っ……!!」
ゆっくりと。そして、根気よく言い聞かせるかのように語り続けるフリーディアに、シズクは遂に返す言葉を失って黙り込んだ。
起こってしまった問題に、ただ猛然と牙を突き立て、それを食い破っていくのは至極簡単な事だ。
自分達の仲間……群れに服従しない者全てを拒絶して食い散らかす……その所業はかつて、我等獣人族が受けたもので。
だからこそ私たちは、新たな獣人族を作り出さないために、心の奥底に燃え滾る怒りを飲み下してきたのだ。
だが……。
「…………」
「貴女にも、思う所があるみたいね?」
黙り込んだまま俯くシズクに、フリーディアは静かに声をかけると、手に持っていた茶器を傍らへ置いて柔らかな笑みを浮かべる。
そんなフリーディアから逃れるように、シズクは俯いたまま視線を逸らすと、手に持ったままの茶器を握り締めて歯を食いしばった。
獣人族は今。大きなうねりの中に居る。
国家として樹立したギルファーの力を以てかつての禍根を晴らし、一族の無念と怒りを晴らそうとする急進派と、虐げられた痛みや悲しみを、苦しみを知る我々だからこそ、二度とかつての同胞たちのような悲劇を生み出さぬように手を取り合おうとする融和派。
異なる二つの意見は真っ向からぶつかり合い、ようやく一つにまとまったギルファーの同胞たちを引き裂いたのだ。
「クス……」
「っ……!?」
自らの故郷の惨状を思い返し、忸怩たる思いにとらわれていたシズクを現実に引き戻したのは、間近にまで近付いたフリーディアが微笑んだ気配だった。
それに気付いたシズクがビクリと身体を震わせ、半ば反射的に身構えた瞬間。
「なっ……!!?」
カチャリ。と。
ともすれば呆気ないとも思えるような音を立てて、シズクの足を戒めていた枷が解き放たれる。
そのあまりの事態に呆気にとられるシズクの視線の先には、たおやかに微笑むフリーディアの顔があって。
「ならもう一度、貴女の目でこの町を見てくると良いわ? でも、日が暮れる前には、必ずここに帰ってきてね?」
どこまでも優し気な口調で、ただそう告げたのだった。




