839話 持たざる騎士
……迅い。
辛うじて槍を構えて立っていたバニサスは、真正面からケンとキバの全霊を込めた攻撃を見つめながら、どこか他人事のようにそう断じていた。
もう……後何度槍が振るえるだろうか? いや……認めよう。こうして虚勢を張って、立っているだけでもう限界だ。
どう気合を込めたってこれ以上は……指の一本すらも動きやしねぇ。
「ハハ……畜生……。俺もここまでか……」
それでも尚、バニサスは絞り尽くした気力の最後の一滴が尽きるまで、脚に力を籠め続ける事を止めるつもりは無かった。
こうして立ち続けていれば、奴等は攻撃の手を止める事は無いだろう。なら、その最期の一瞬まで時間を稼ぐ事が俺の仕事であり、誰にも譲れねぇ俺の役目だ。
悔いは無い。こうして平和になった愛する町を背に護りながら、逝く事ができるのだから。
「……今日の飯。何だったのかなぁ」
ボソリ。と。
ただ一つ、バニサスはゆっくりと唇を動かすと、掠れた声で残った心残りを零す。
いつも。仕事の終わりに立ち寄っていたあの温かな店。
アリーシャちゃんとテミスちゃんが、可愛らしくも甲斐甲斐しく給仕する姿を眺めながら、マーサさんの作った絶品の料理を肴に酒を飲む。
あの安らかに流れるいつも通りの時間こそが……今日一日、己が護り通した平和を享受しながら寛ぐ時間こそが、バニサスが最も楽しみにしている、何者にも代え難い時間だった。
その輝かしい時間が訪れる事はもう無い。精も魂も尽き果てた俺はもう、あの鉤爪に切り裂かれ、冷たい地面に倒れ伏すだけだ。
「フッ……」
だが、気付けばまろび出てきていたはずの口惜しさや悲しみは無く。バニサスはいつの間にか己の心を満たしていた満足感に包まれながら目を閉じた。
その時だった。
「さ……せ……るッ……かあああああああぁぁァァァァッッッッ!!!!」
「――っ!?」
燃え上がる炎のように猛々しい怒声が響き渡ると同時に、けたたましい金属音が鳴り響く。
そして、いつまで経ってもバニサスの身体を痛みが襲う事は無く、遂に立っている力すらも失ったバニサスは、ゆっくりと崩れ落ちながらも、閉ざした目を薄く開いた。
「お……前ッ……!?」
「ッ……!! 白翼騎士団が一翼……リット・ミュルク。ここはフリーディア様の守る町だ。誰一人死なせるかよッ!!」
そこに居たのは、一人の赤毛の騎士だった。
しかし、その身に纏っている甲冑は無く、腕や頭、果ては簡素な服から覗く胸元には、何重にも包帯が巻き付けてある。
「ハッ……何かと思えば……今度は怪我人か……。死にぞこないが増えた所で意味ねぇんだよォッ!!!」
「――っ!! 待てッ!! ケンッ!!!」
ケンは突如姿を現したミュルクに驚いていたものの、ヒクヒクと鼻を動かし後、すぐにその表情を歪めてけたたましく叫んだ。
そして、キバのあげた制止の声を無視して、拳を振りかぶりミュルクへと突撃する。
「ああ。確かに俺は死に損ないだ。だがなッ……!!!」
「グッ……ァ……」
真正面から飛び掛かってくるケンに対して、ミュルクはギラリと瞳を光らせてそう呟くと、ヒャゥンと甲高い風切り音を立てて剣を振るう。
その剣は鮮やかな剣閃を残して空間を断つと、ミュルクへと飛び掛かるケンを袈裟懸けに切り裂いた。
「ッ……!! 鎧の無い俺だから……!! こうして、誰よりも早く駆け付けられたんだぜ……?」
ドシャリ。と。
ミュルクの一太刀を受けたケンが倒れ伏すと同時に、苦し気に歯を食いしばったミュルクは、不敵に口角を吊り上げて言葉を紡ぐ。
しかしその直後。
ヨロリと体勢を崩すと、地面に剣を突き立てて膝を付いた。
「テメェ……ッ!!」
キバはそんなミュルクをギロリと睨み付け、血濡れた鉤爪をゆらりと持ち上げて突撃の構えを取る。
だが、それでもミュルクの口元から笑みが消える事は無く、ミュルクは固く巻かれているであろう包帯に血を滲ませながら口を開く。
「クク……良いのか? 俺なんかを相手にしてて……」
「ふざけた事を……半死人の二人如き、簡単に殺して――ッ!!」
まるで、挑発するかのように紡がれたミュルクの言葉に、キバが唸るような声で応える途中、ピクリと耳を震わせて表情を変えた。
同時に、ミュルクの後方。ファントの町の門がそびえる方向から、ガシャガシャと甲冑の打ち鳴らされる音が響いてくる。
「ヘッ……流石獣人族だ。耳が良いじゃねぇか。どうする? テメェ等の命棄ててでも俺達を殺すって言うなら相手してやるけどな……」
「っ……!!! クソッ……!! やってや――」
「――退くぞ」
「コウガさんッ!?」
ミュルクの挑発に乗り、鉤爪を構えたキバが怒声をあげかけた瞬間。
突如その背後から手を伸ばしたコウガが、振り上げたキバの腕を掴んで制止する。
「今回は互いに一人づつ……痛み分けという事にしておいてやる」
「コウガさん!! 何で……!?」
「黙れ。ケンを忘れるなよ」
コウガは言葉と共にキバの腕を離すと、手に携えていた大太刀を地面へと振るい、轟音とともに土煙を巻き上げた。
その後間もなく、後続の騎士達が到着して土煙が晴れた頃には、既にコウガ達三人の獣人の姿は無く、ミュルク達の眼前には、まるで地面を齧り取ったかのように荒々しい太刀傷が残されていたのだった。




