833話 大いなる犠牲
シズクがマーサの宿屋で寝泊まりをするようになってから数日。
済んだ空気の中を取りの声が響き渡るこの朝の時間は、テミスにとって一日の中で最も気怠く、そして憂鬱な時間となっていた。
「ふぁ……ぁふ……」
テミスは自室の部屋から出ながら大欠伸をすると、容赦なく襲い来る眠気に頭をフラフラと揺らしつつ、階下へ向けて歩き出した。
あの後。店へと駆け付けたフリーディアによってシズクの担当が割り振られ、一つ屋根の下に居るからというだけで、夜の間彼女の動向を見張る役を押し付けられてしまった。
尤も。マーサの計らいでシズクの部屋はテミスの部屋の隣室を割り当てる事ができたお陰で、睡眠を取る事ができないという一点を除けば、他の獣人を担当している者達に比べて、遥かに快適に過ごしているのだが。
「だからといって……いくらなんでも一人は無理があるだろう……」
そう独り言を紡ぎながら、テミスは重い足取りで階下へと赴き、再び込み上げてきた欠伸を眠気と共に噛み殺す。
この仕事をこなしている間は、朝方に宿に来る者へ監視を引き継いだ後、昼過ぎまで休息できるとはいえ、元より睡眠時間が長く、こよなく惰眠を愛するテミスにとって、朝方から昼過ぎまでという時間では、到底足りる訳も無い。
「はぁ……いったい……いつまで続くのだ……」
テミスが今にも微睡みへと引き込まれそうになる意識を食い止めつつ、フラフラと覚束ない足取りで階下へと降りると、そこでは既に全ての元凶が笑顔で待ち構えていた。
「お早う! テミス。良い朝ね?」
「……何が良い朝だ馬鹿馬鹿しい。私はな……一秒でも早くベッドへ潜りたいんだ」
「もぅ……大袈裟なんだから。六時間も寝れば十分じゃない」
フリーディアは階下に辿り着いたテミスを迎えるように歩み寄ると、涼やかな笑みを浮かべてテミスの文句をまるでただの軽口であるかの如く切って捨てる。
そう。あろう事かこの狂人にとって睡眠とは、たったの六時間で足りてしまう程に軽いものであり、あまつさえその狂った己の認識が、世界の人間全てに当てはまる常識だと思っているから殊更質が悪い。
「何度も言うが、私はお前と違うんだ。このまま改善する気が無いのなら、私はもう二・三日で倒れるから覚悟して代わりの奴でも準備しておけ」
「そんなこと言って……って……本当に少し顔色が悪いわね……。もしかして、彼女と何かあったの?」
「…………。ハァ~……ただの重度の寝不足だ」
必死で眠気に抗いながら告げたテミスの言葉に、フリーディアは身を乗り出すと真剣な顔で的外れな言葉を返す。
そんなフリーディアにテミスはたっぷりと数秒かけて恨みの籠った視線を向けた後、諦めたように深いため息を吐いて言葉を紡いだ。
もうどうにでもなれ。
テミスは胸の内で半ば投げやりな気持ちで呟くと、『護衛』の引継ぎ役であるフリーディアと情報を交換する。
かつて、ショートスリーパーやロングスリーパーと呼ばれる者達が確認されていたあの世界でさえ、この手の話題の諍いはよく聞いたのだ。
なればこそ、そう言った類の体質が科学的に立証すらされていないこの世界でいくら言葉を交わしたとて、恐らくはショートスリーパーであろうフリーディアの理解は得られないだろう。
「そう……昨日も夜間の外出は無かったのね……。彼女はもう、白で良いんじゃないかしら?」
寝不足に霞む頭で、テミスがそんな事を考えていると、情報の交換を終えたフリーディアが、少し考えこむ素振りを見せた後で口を開いた。
要するに、私が問い質してたうえでこうしてしっかりと見張っていても、フリーディアにはただの観光者にしか見えないらしい。
「それこそ、馬鹿を言うな……だ。早計に過ぎる。それにこのファントは発展したとはいえ、物見遊山で一ヶ月も二ヶ月も留まる場所ではない。ただの旅行者であるか否かなどあと数日もすれば見えてくるだろう」
しかし、テミスは不敵な笑みを浮かべてチラリと二階へ視線を送ると、フリーディアが言葉を返すのを待たずに身を翻す。
昼間にシズクと行動を共にした者達の話では、彼女は初日から休むことなく買い物や見物に勤しみ、存分に満喫しているらしい。ならば、この町を見尽くすのも時間の問題。言葉通りの興味本位で立ち寄った旅人ならば、あと数日で去っていくはずだ。
「ちょっと! テミスッ! まだ話は終わって無いわよ!?」
「後にしてくれ。死ぬほど眠いんだ。だから間違っても、本当に緊急の事態が起こった時以外では起こすなよ?」
テミスは呼び止めるフリーディアを無視して二階へと足を向けながら、『護衛』を外さぬ理由を胸の内で捕捉した後、ピタリと足を止めて念を押して再び歩き出す。
兎も角、今は睡眠だ。ぐっすりと短すぎる睡眠をとった後、それでも尚説明を求めるのならば、丸一日眠りこける権利と引き換えに教えてやらんでもない。
「もぅ……仕方ないわね……」
そんなテミスの内心を知ってか知らずか、フリーディアはフラフラと頼りなく揺れながら二階へと消えていくテミスの背を眺めながら、小さな声で呟きを漏らしたのだった。




