830話 不穏なる邂逅
十数分後。
シズクを連れたバニサスは一軒の店の前で立ち止まった。
だが、その格好は門番を務める衛士の格好のままで。手荷物一つ持っていないバニサスとすれ違うたびに、彼の事を知る町の人々は首を傾げながら遠巻きに眺めた後、何も言わずにすれ違っていった。
「よし……ここだ。シズクの嬢ちゃんもきっと気に入るぜ?」
「はぁ……」
無論。そんな違和感にシズクが感付かないはずも無く。
言葉と共に満面の笑みを浮かべて振り返るバニサスに、シズクは浮かない口調で言葉を返しながら、羽織った外套の下で腰に提げた打ち刀の柄へと静かに手を添える。
「ここは何を食っても旨くてなぁ! 女将のマーサさんの飯は絶品! それに給仕の嬢ちゃんも可愛らしいのよ! 宿屋もやってるから、部屋が空いてたら泊まってみなよ!」
「いえ……。こんな良い宿に泊まれるほどお金持ってないので」
屈託のない笑みを笑い声を上げながら、バニサスは躊躇なくマーサの宿の戸へと手をかけた。
その背後で、シズクはボソボソと言葉を返すと、店を見上げつつ、その胸の中で逃走の算段を立てていた。
前を歩く衛兵の男……道すがらに聞いた話では名前をバニサスというらしい。そして僅かながらも話してみた感じ、確かに悪い者では無いのだろう。
だが、どうやら他人の懐事情を察する程の気遣いは無いらしく、国元を発つときに渡された身銭も既に少ないシズクとしては、こんな見ただけでも高級だとわかる店で食事をする余裕などないのだ。
「ハハッ! 気にすんな。俺が誘ったんだ。メシくらい奢ってやるさ」
「っ……!! ですが……」
「良いんだって! ホラ……たぶん、宿代も嬢ちゃんが心配してるほど高くはねぇよ」
バニサスはカラカラと笑い声を上げた後、戸口で渋るシズクを半ば強引に店の中へと招き入れて扉を閉めた。
その瞬間。
賑やかで温かな空気に乗って漂ってきた様々な料理の芳しい香りが、シズクの鼻を強烈に貫き、彼女の理性を無視した身体がその口内に涎を溢れさせる。
「お? バニサスさん? いらっしゃいっ! ……およ? 今日はお連れさんが?」
「ン……? あぁ。旅人さんでね。とりあえず、アリーシャちゃんの今日のおすすめを二人分頼むよ」
同時に、朗らかな声が間近から響き、料理の香りに意識を向けていたシズクはバニサスの後ろで小さく跳び上がって視線を向けた。
そこでは、店内を踊るような動きで駆けまわっていたはずの給仕の少女が一人、いつの間にかバニサス達の前に立っており、ニコニコと可愛らしい笑顔を向けている。
だが、バニサスがその超人的な動きに触れる事は無く、まるで当たり前の事であるかのように言葉を交わしていた。
「あいあい。んじゃ、こちらの席へどうぞ~。お連れさんも……ついてきてねぇ~」
そしてシズクが口を挟む間もなく、アリーシャと呼ばれた給仕の少女がクルリと身を翻すと、身に纏った給仕服のスカートが開いた花弁のように宙を舞う。
その声に従い、シズクはバニサスの背を追って案内された席へと腰を下ろして一息を吐いた。
ここまでの旅路の間では、贅沢を楽しむ余裕など無かった。
けれど、遂に目的であるファントの町へ辿り着いたのだ。到着したその日くらい、少しだけ贅沢をしても赦されるだろう。
シズクは店内に漂う美味そうな料理の香りに早々に白旗を上げると、その目線を上機嫌に店内へと走らせた。
……時だった。
「お待たせいたしました。お先にこちら飲み物……私からのサービスです」
フワリ……。と。
柔らかな光が照らす店の中を見渡すシズクの視界に、銀色の髪が舞い踊る。
直後。シズクが突如として視界の端に現れたそれを認識した瞬間、妙な堅苦しさを感じる言葉が、全身の毛が逆立つほどの殺気と共に浴びせられた。
「――っ!!!!」
「止せっ!!!」
瞬間。
シズクは腰を下ろした椅子を跳ね除けて飛び退き壁際に背を預け、同時に叫んだバニサスの言葉を無視して、迷うことなく腰に提げた打ち刀の鯉口を切る。
そうだ……私は何故気を緩めたんだ。
いくら長旅の疲労と空腹が溜まっている所に、こんなにも美味しそうな香りをぶつけられたのだとしても。私が警戒を緩めて良い場所では無かった。
「っ……!!!」
「待ってくれ!! 勝手に連れて来たのは謝る!! っと……シズクの嬢ちゃんも落ち着け!! 大丈夫だから!!」
案内された場所が壁際で良かった……と。
ドクドクと高鳴る鼓動を感じながら、シズクは自らが蹴倒した椅子へチラリと視線を走らせる。
その眼前では、まるで命乞いでもするかのように必死の形相で、バニサスがアリーシャと呼ばれた少女と同じ給仕服に身を包んだ、長い銀髪の少女に懇願していた。
「ハッ……。二人共、おかしな反応をする。私はただ、飲み物をプレゼントしに来ただけだというのに……」
突如として起こった騒動に店内が騒然とする中。
シズク達の前に立った銀髪の少女は、とても給仕とは思えない、恐怖すら感じる程に壮絶な笑顔を浮かべて白々しくもそう嘯いたのだった。




