828話 流浪の少女
テミスの指示の元、ファントの町が独自の警戒態勢を取りはじめてから三日。
一人の少女がファントの町の門の前へと辿り着いていた。深くフードを被り、その小柄な身に纏った外套は薄汚れ、誰もが一目見ただけでこの少女が長い距離を旅してきたのだと見て取れるだろう。
少女の眼前では、見上げる程に大きな通用門には様々な人々がファントの町へ足を踏み入れるべく、長蛇の列を作っている。
彼等の表情はすべからくきらきらと希望に満ち溢れており、その表情を見るだけで、長蛇の列に並ぶ人々の高鳴る胸の内が、少女へと伝わってくる。
「っ……」
そんな門前の様子に少女は一息を吐くと、自らもファントの町へと足を踏み入れるべく、長く続く列の最後尾へと並び立つ。
だが、少女が並んだ列の進みは非常に遅く、連れ合いも居ない少女にとって、自らの順番が来るまで待ち続けるこの時間は、酷く退屈なものだった。
「ふぅ……」
しかし、少女は胸の内に湧き上がる退屈さなどおくびにも出さず、微かなため息と共に辺りへと視線を走らせ、周囲の様子を観察していた。
行列に並んでいる人々は多種多様。手入れの行き届いた武具を提げた冒険者風の者も居れば、大きな荷物を担いだ行商人のような風体の者、果てはおおよそ旅になど向かない服装に、バスケットを提げている少女の姿まである。
「フム……この辺りは、余程平和なようですね……。それも全てはこの町のお陰……でしょうか?」
ボソリ。と。
油断なく周囲に目を走らせる少女は小さな声で呟くと、今度は町の外周を覆う防壁へと視線を向けた。
そこでは、防壁の上下に等間隔に配置された警備の兵が目を光らせており、通用門となっている壁の上には、なにやら丸い物見櫓のような建物までが見て取れる。
そんな兵士たちの表情は明るく、彼等は時に談笑すら交わしながら各々の任に当たっているものの身体捌きに隙は無く、それだけでこの町を守る兵達の高い練度が伺えた。
「やはり……密かに出入りするのは難しそうですね……。ここは冒険者……いえ、旅人という事にでもしておきましょうか」
じりじりと進む列に合わせて歩を進めながら、少女は外套の下……その腰に携えた二振りの刀の柄を撫でてひとりごちる。
冒険者を名乗っても良いが、少女には生憎とその身分が無い。ならば、自らの風体を生かして、冒険者を志す駆け出しという事にしても良かったが、そう設定するにしては、この腰の得物は少しばかり過ぎた物だ。
長刀と短刀。少女の故郷では打ち刀と脇差と呼ばれる武器で、その中でも少女がその腰に帯びているのは業物中の業物。その気になれば、石垣程度ならば易々と切り裂けてしまう程の鋭さを持つ。
「まぁ……旅人といっても……。いっその事、武者修行の旅とでもしておきますか……」
ゆっくりとだが、着実に自らの順番が迫るのを感じながら、少女は僅かに胸を高鳴らせて自分の設定を盛り付けていく。
この町を訪れたのは物見遊山。修行の傍らに噂を聞きつけ、興味を惹かれて立ち寄ったとしよう。
事実。ここへ来るまでに集めた情報には、この胸が躍らんばかりの魅力が溢れていた。
美味な食事に上質な品の集まる市。どれも少女の故郷では見る事のできない、夢のような物ばかりだ。
「はい。いいぜ。次ィ~の人ォ~。待たせて悪ぃね」
少女がまだ見ぬファントの町へ思いを馳せていると、唐突に前方から良く通る声が響いてきた。
気付けば、少女の前に並んでいた物の姿は既に無く、前方では数人の兵士がこちらを見て穏やかな笑みを浮かべていた。
「っ……! いえ……」
遂に、自分の順番が来たのだ。
数瞬の逡巡を経て、空想の世界から意識を引き戻した少女は現実を認識すると、返答を返しながら兵たちの元へと小走りで駆けていく。
「ん……? 嬢ちゃん。一人かい? お連れサンは?」
「はい。一人です。旅をしておりまして」
「フム……? あぁ、ひとまず名前と予定している滞在日数や目的を教えてくれ」
「えぇと……。っ!!」
準備していた設定になぞらえて、少女は兵士からの質問へと答えていく。
だがその途中。少女は鋭く息を呑むと、ピクリと微かにその小さな肩を震わせた。
「ん……? どした?」
「いえ……。名前はネ……シズク。シズクです。目的は……そうですね、食事や観光でしょうか……。なので、特に滞在日数は決めていないのですが」
「ハハッ……そう固く考えなくても良いさ。滞在日数はいくらでも延長できるし切り上げたっていい。そうさな……んじゃ、シズクの嬢ちゃんがこの町に惚れ込むのを見越して、ひとまず十日くらいにしておくか」
「ありがとう……ございます」
兵士が彷徨わせた視線に感付いた少女は、咄嗟に用意していた偽名ではなく本当の名前を名乗ると、明るい笑みを浮かべる兵士にぎこちなく礼を告げた。
こうして居る間にも、兵士は手元に用意した書類に何やら書き込んでいき、最後に大袈裟な動きでペンを走らせると、特大の笑顔を向けて口を開く。
「これでヨシ!! っと……いけねぇ。悪いが、最後に一度外套を外して確認させて貰うぜ」
「……わかりました」
「っ……! あ~……」
僅かに逡巡はしたものの、シズクは気さくにそう告げる兵士の言葉に従って、自らの身を覆い隠していた外套を外す。
瞬間。
兵士の目が驚いたように見開かれた後、気まずげに間延びした声が響いたのだった。




