824話 獣人国家ギルファー
「っ……馬鹿な……」
静まり返った執務室の中に、掠れたテミスの声が響き渡る。
その前には、瞬時に切り替わったテミスの意識を汲み取ったのか、既に真剣な表情を浮かべて言葉を待つフリーディアと、彼女の傍らで居住まいを正して侍るマグヌスの姿があった。
テミスに宛てられたオヴィムからの一通の手紙。彼らしい堅苦しい挨拶から始まった文章は、彼等の近況を綴ると共に、彼方にまで轟いていたらしい融和都市ファントの噂を湛えていた。
だが、その末尾に走り書きのように添えられていた一文が、並々ならぬ衝撃をテミスへ与え、それまでの全ての感情を粉々に吹き飛ばした。
――ギルファーにて、貴都市への不穏なる動きを耳にした故。急ぎここに報せる。
「何故だ……どうして……」
恐らくは、この最後に記された一文こそが、この手紙の中でオヴィムが最も伝えたかった事なのだろう。
そしてそれまでに記されていた内容と、末尾の走り書きを併せて考えれば、この手紙を書いた時、オヴィムがギルファーに居たのは間違いない。
そんな時勢の中から、このような斥候紛いの手紙を送るなど、彼等にとっては己が身を危険に晒すだけの行為だ。
それでも尚、こうして報せを送ったという事は、ギルファーでの不穏な動きとやらが、既に抜き差しならない状況にあるのだろう。
「…………。悪い報せだ」
「……貴女の顔を見れば解るわ」
「っ……」
パサリ。と。
テミスは軽い音を立てて手に持っていた手紙を机の上へと置くと、自分の言葉を待ち続けている二人へ、静かに口を開く。
無論。この手紙に書かれた内容が真実であるとは限らないし、そもそもオヴィムが送って寄越した物ですらない可能性はある。
だがテミスは、この手紙はオヴィムが記した物であり、その内容に偽りがないと直感していた。
「詳しい事はわからん。だが、ギルファーがきな臭いらしい」
「なっ……」
「ギルファー?」
重たい口調で、テミスが手紙の内容を簡潔に伝えると、その前に立つ二人の表情が対照的に変わる。
衝撃を受け、驚愕の表情を浮かべるマグヌスに対して、フリーディアは眉根を寄せて不思議そうに首を傾げていた。
「フリーディア殿には馴染みが無いかも知れません。獣人国家ギルファー……ギルティア様の治められる魔王領、その北方に隣接した、その名の通り獣人たちによる治世が敷かれる国です」
「そんな国が……知らなかったわ……」
「フン……無理も無い。ロンヴァルディアはついこの間まで血眼で魔王軍と戦っていたのだ。自国と隣接すらしていない……しかも魔族の国に、目を向けている暇などあるまい」
「っ……!! ……。えぇ……その通りね……」
唇を歪めたテミスがそう軽口を叩くと、そこに含まれた皮肉に敏感に反応したフリーディアが一瞬、鋭い視線でテミスを睨み付けるが、数秒目を瞑って大きく息を吐いた後、静かな声で告げながらコクリと頷く。
「……一応言っておくが、今のはお前個人を責めた訳ではないぞ?」
「いちいち言わなくてもわかってるわよ。でも、私個人として調査を怠っていたのは事実だわ」
「ハァ……これだから……。それを言うなら、私なんてヤマト……アルティアなんて都市など、名前どころか存在すら知らなかったぞ」
その、クソがつくほどに真面目なフリーディアの態度に、テミスは苦笑いを浮かべてため息を吐きながら、その傍らに立つマグヌスへと視線を送る。
性格が生真面目なのは美徳だが、度を過ぎるのも問題だな……。と。
自分の視線に込められた意図を受けて一歩進み出るマグヌスを眺めながら、テミスは胸の中で嘆息した。
尤も、テミス自身も国の名こそ聞き覚えはあるものの、その実態については何一つ知らないのだが。
「獣人国家ギルファー。小国ながらもその歴史は古く、精強を誇る国です。ですが、魔族と呼ばれる者たちの中でもその保有魔力の少ない彼等の扱いは厳しいもので、魔王を名乗られたギルティア様が国交を結ばれるまではとても閉鎖的な国でした」
「閉鎖的……? それは……何故……?」
「フン……」
フリーディアの問いに、テミスは小さく鼻を鳴らすと、聞くまでも無いと言わんばかりに眉を吊り上げる。
獣人族の長所はそのずば抜けて高い身体能力だ。だが、いくら身体能力が高かろうと、強力な魔法で遠距離から攻撃され、抗う手段も乏しいとなれば、そんな種族の末路など知れている。
「力無き者は虐げられます……寒さの厳しい彼の地に国を構えたのもそれ故かと……。ですが、彼等はそれでも誇りを失わなかった。真に強き者への忠義を胸に、獣人族たる矜持を……自らが魔族と呼ばれる、強き存在である事を忘れなかった。ですが、だからこそ同胞たる魔族には嘲笑われたり、力を合わせて戦う人間達に敗れ、奴隷として鎖に繋がれる者も多いと聞きます」
「っ……!!!」
「フム……」
マグヌスの言葉に、思う所があったのだろう。
フリーディアはピクリと肩を跳ねさせると、その場で静かに拳を握り締めて黙り込む。
その正面で、椅子に腰かけたままのテミスは、フリーディアの様子を冷静な目で眺めながら、静かに喉を鳴らしたのだった。




