823話 彼方からの報せ
テミスとフリーディアが剣の訓練を始めてから数十日。
元来の資質も相まってか、めきめきと剣技の実力を伸ばすテミスは、訓練として手加減はしているものの、フリーディアと十二分に打ち合う事ができるほどにまで成長していた。
同時に、ファントは融和都市として名乗りを上げた効果も薄れ、新たに訪れた平穏の日々を、日常として受け入れ始めている。
そんな、新たな生活は無論、この町を治めるテミス達にも等しく訪れていた。
「テミス様。冒険者ギルドからの打診ですが……」
「また冒険者の定住希望か? 却下だ。ついでに、同じ事を何度も打診するなと添えて叩き返してやれ!」
「しかし……」
「マグヌス。お前ならばわかるだろう? 冒険者というのは元来、不安定な職業だ。自らの腕と実力で幾らでものし上がれる代わりに、命を落とすような危険な仕事もあれば、割に合わない仕事もある。そんな連中の我儘を受け入れた日には、次にくる要求など目に見えているわッ!」
苛立つように語気を荒げたテミスは、差し出された書類をマグヌスへと突き返すと、傍らで湯気をあげているコーヒーを一気に呷って、苛立ちと共に飲み下す。
この未熟な世界には、不運や怠惰、そして時の流れによって生活ができなくなった者を等しく救う制度など存在しない。
国の為に尽くす騎士や兵士……もしくは貴族の連中であれば、多少の恩給や褒章は貰えるらしいが、そんな恩恵に与れる者たちなどほんの一握りだ。
「そもそも! 選定基準ならば既に通達済みだろう! それに冒険者など、いつぱったりと帰って来なくなるかもわからん連中だ! 腕や地位にある程度の保障が無ければ、リスクが高すぎる!」
「っ……。ハッ……承知いたしました。では、冒険者ギルドにはそのように通達します」
「ハァ……でもそれでやさぐれた連中が、物乞いや野党の類になっては更に手間がかかるだけだしなぁ……。代わりに困窮者向けの選定依頼や、手慰みでできるボーナス程度の常設依頼の数を少し増やしておけ」
「畏まりました」
テミスは自らの下した判断に、重苦しく頷いたマグヌスへ言葉を付け加えると、腰掛けていた椅子へ深く身を沈め、弱々しい声をあげて視線を虚空に泳がせる。
こういった類の報告が上がってくるという事は、まさしく町が平和であることの証拠に他ならないのだが、事務仕事を厭うテミスにとしては、諸手を挙げて歓迎できるものでは無かった。
「うふふっ……なんだかんだで優しいじゃない」
「五月蠅い。野盗や行き倒れに身を窶した冒険者など、殺して畑に混ぜ込んだところで肥料にもならん」
その傍らから、書類を手にひょっこりと姿を現したフリーディアが声をかけるが、テミスは心底面倒くさそうに、半ば本気とも受け取れる物騒な言葉を返す。
「もう……でも、英断だと思うわよ。ここ最近は獣人種の人たちが町に来ているわ。下手に抑圧して暴れさせるよりも、上手く事が収まるわ」
「ハッ……どうせあそこのギルド長の事だ。重要だの緊急だのそれらしい文句を小賢しく並べ立てたのだろう。普段から下らん事柄でそういった言葉を安売りするから、いざという時に困るのだ馬鹿者め」
「それは同感ね。さ……私の方はこれでおしまい。あとはテミス? 貴女が終わるのを待つだけなのだけれど」
「チッ……」
ドサリ。と。
重厚な音を立てて、フリーディアが持参した書類をテミスの机の上の一角へと置くと、テミスはそれにチラリと視線を向けただけで、忌々しそうな舌打ちを一つだけして黙り込んだ。
元来、こういった仕事に慣れているせいもあるのだろう。こういった書類仕事の類はフリーディアの十八番だった。
故にテミスは、日々増えていく、どうでもいい緊急報告や重要打診のほとんどを彼女に任せて居るのだが、こうして伝手を伝って直接やって来る物を捌かなければならないせいで、テミス自身の仕事は遅々として進んでいなかった。
「少し待ってろ。あと数件だ……んっ?」
フリーディアの視線を受けながら、気だるげにテミスが残りの書類を取り上げると、その中に挟まっていたらしい一つの封書が机の上へと転がり出る。
封書に使われている紙の質はお世辞にも上質とは言い難く、かなり長い距離を経てこのファントまで送られたのか、封書はかなり薄汚れていた。
しかし、精緻な筆跡でそこに記されている名前を見た途端、緩んでいたテミスの表情が一気に引き締まる。
「オヴィム……」
封書に記されていたのは、先代魔王軍第十三軍団軍団長の懐刀にして、かつて彼の心を縛っていた呪縛を解き放ったテミスと縁を結び、新たな主と共に旅立っていった男の名前だった。




