812話 二人の主
「えっ!? 倒れたッ!?」
昨夜起きた身体の異変の報告をテミスがフリーディアへと伝えたのは、次の日の昼過ぎになってからの事だった。
何故なら、テミスが自らの部屋へと戻ってすぐ、注文通りにアリーシャが持って来てくれたお湯とタオルで身体を拭い、さっぱりした頃には既にテミスの意識は夕食へと向いており、突如として自らを襲った苦痛の事など、きれいさっぱりと忘れていたのだ。
それを思い出したのも、テミスの異常を唯一知るフリーディアが、念のために異常が無かったかを問い質したからだった。
「な・ん・でッ!! そんな重要なことをすぐに言わないのよッ!!」
二人がかりで処理を始めてから、目に見えて量の減った書類をも吹き飛ばす勢いでフリーディアが叫びを重ねるが、とうのテミスはコーヒーを啜りながら気だるげに開いた半眼を彼女へと向けている。
「重要も何も……別に身体の調子が悪い訳でも無いし、視界や感覚も変わらんのだ。おおかた、久々の書類仕事の疲れが、酷い立ち眩みとして出たといった所だろう」
「っ……!! でも、念のためにイルンジュさんに確かめて貰った方が良いわよ。問題は無いといっても、まだ上手く手加減ができないのも変わらないのでしょう?」
「心配し過ぎだ。そもそも、体調不良が原因では無いだろう」
眉根を寄せて告げるフリーディアに対し、テミスは片手を上げてひらひらと振って適当に言葉を返すと、その表情をニンマリと意地の悪いものへと変えて言葉を続けた。
「今日はこうして、朝からずっとお前と二人で書類仕事をこなしていたから確かめる暇も無くてなぁ……。まぁ? 他でもないお前が言うんだ……。早急に確かめる必要はあるかもしれん」
「っ……!! 待ちなさいよっ!」
「おっと」
瞬間。
書類仕事からの逃亡を図ろうとするテミスの意図に気付いたフリーディアの腕が閃き、言葉と共に不敵な笑みを浮かべて自分の席から腰を浮かせかけたテミスの腕を捕まえる。
「フン……随分と必死だな?」
「当り前じゃない! 二人でやればあともう少し……上手く行けば今日中に溜まっている仕事の片が付くのよッ!!」
「プッ……クククッ……!!」
「な……なによ……?」
しかし、フリーディアが腕を掴んだまま言葉を返すと、テミスは唐突に破顔して空いた片手で口元を抑え、体を折り曲げて笑い転げ始めた。
その様子はまるで、フリーディアが爆笑不可避の面白い話でもしたかのような笑い転げっぷりで。
フリーディアはテミスを逃がさぬように腕を掴んだまま、僅かに眉を吊り上げて首を傾げる。
「フフッ……ハハハハハッ……!! いや……いや、すまんすまん。お前がこの町の事にそんなにも真剣になっているのがどうも可笑しくてな……」
「っ……!! それこそ今更じゃない」
「解ってるさ。ククッ……だがまさか、お前とこうしてファントの街並みを眺める日が来るとはな……」
クスクスと笑いながら答えるテミスに、フリーディアは吊り上げた眉をピクリと跳ねさせて抗議の声をあげた。
だが、その笑いが収まる事は無く、テミスはひとしきり笑い終えた後に、感慨深げに窓からファントの街並みへと視線を向け、呟くように告げる。
そんなテミスの表情を見てしまったあとでは、フリーディアとて握り締めた拳を開かぬわけにはいかず、テミスの視線を追って窓の外へと視線を向け、柔らかな口調で口を開く。
「……そうね。貴女と私……幾度となく剣を交えた私達だからこそ、こうして共に肩を並べて平和な街並みを眺めていられる……。私は、貴女が創り上げたこの素晴らしい町に乗っかっただけだけど……。だからこそ、この町の平和を守り、広めていくためにはより一層頑張らないと……」
「いや、そんな事はないさ」
「何よ。人がせっかく素直な気持ちを話してるっていうのに……」
けれど、再び意地の悪い微笑を含んだかのようなテミスの言葉にフリーディアが視線を戻すが、彼女の予測に反してテミスは何処か儚げな笑みを浮かべていた。
そしてテミスも、町へと注いでいた視線を驚きで僅かに目を見開いたフリーディアへ戻すと、静かな声で言葉を紡いだ。
「いいや……そうじゃない。私はただ、目の前にはびこる『悪』を叩き潰しただけ。この平和な町が素晴らしいものだというのなら、それはこの町の者達やそこに集うお前達のような連中が創り上げたものさ」
「っ……!!」
テミスの紡ぐ言葉に、フリーディアは僅かに見開いていた目を見開き、唐突に湧き出た胸を掻き毟りそうになる程の不可解な激情を、ぎしりと歯を食いしばって噛み殺していた。
その言葉はとても柔らかで優しいものの、まるで自分自身をこの町の平穏から遠ざけようとしている様で。
そんなテミスの姿が、傍から見ているフリーディアの目には、自ら喜んで不幸へと突き進んでいくように見えたのだ。
「……おい、フリーディア。力を入れ過ぎだ。痛い――ぞ!?」
「確かめましょうか」
「はぁっ……!? お前急に何を言って――」
「――息抜きがてら確かめましょう。勿論、私も付き合うから」
だからこそ。
フリーディアは胸に宿った言いようのない思いをぶつけるように、テミスの腕を掴んだまま気迫の籠った静かな声でそう告げたのだった。




