811話 嵐過ぎる帰り道
「っ……くそ……フリーディアの奴……ここぞとばかりに私へ仕事をさせて……」
夜。
テミスは疲労で重たい足を引きずりながら、ゆっくりとした足取りで家路についていた。
事後の処理を含め、ミュルクの騒動に片を付けた後、流石に芽生えた良心の呵責から、テミスは自らフリーディアに任せた仕事の助力を申し出たのだが、今思えばそれが間違いだったと後悔が押し寄せてくる。
だが不思議と胸の内には心地の良い満足感が満ちており、テミスは久々の書類仕事で凝り固まった肩を回して苦笑いを漏らす。
「やれやれ……これでは――っ!?」
しかし、路地を曲がり、テミスの家でもある柔らかな明りの灯ったマーサの宿屋が見えた時だった。
テミスはまるで踏みしめた石畳が突如として泥のように柔らかくなったかのような感覚を覚えると同時に、ぐにゃりと視界が大きく歪んだ。
必死で脚に力を籠め、建物の壁に身体を預けて踏ん張るも歪みは酷くなる一方で、遂には胃の中身を全てぶちまけてしまいそうな程の胸やけまで覚える。
「なっ……ん……っ……ぁぐっ!!?」
続いて、突如としてその身を襲った異常に歯を食いしばり、必死で堪えるテミスを苦しめたのは四肢に走った凄まじい痛みだった。
それも、ただの痛みではない。
体の芯である骨自体がビキビキと音を立てて砕けていくような鋭い痛みと、千切れた筋肉が熱を持って発するようなズキズキという鈍い痛みが、同時にテミスを苛んだのだ。
今にも堰をきってしまいそうな程の悪寒と、全身の痛み。如何に戦場での戦いで剣で斬られ、魔法で焼かれた経験を持つテミスであってもその苦痛を呑み下す事は叶わず、大量の脂汗と涙、そして嗚咽となってまろび出る。
「な……だ……これ……は……」
そんな人知を超えた苦痛の中でも、意識を保つことができる程に強靭な精神力を有していた事は、テミスにとって紛れもなく不幸だったといえるだろう。
最早自分が立っているのかもわからない程に混濁した意識の中で、テミスは訳も解らぬまま、必死に歯を食いしばって自らの意識を繋ぎ止める事だけに集中した。
そして。数時間、数分、数秒……どれ程の時間が過ぎたのだろうか。
テミスにとって永劫の如く長い時間が過ぎると、苦痛に霞みかける意識が少しずつ正常に戻りはじめ、それに伴って全身を襲う苦痛も収まっていくのが感じられた。
「くっ……ん……む……んん……?」
そこから更に数秒。
テミスは一人、路地の隅に膝を付いて蹲っている自分の姿を正しく認識する。
全身を蝕んでいた苦痛は既に消え去っており、町には変わらぬ喧噪が漂っていた。
「気の……せい……? 幻覚? いや……」
恐る恐るといった調子で脚に力を込めて立ち上がりながら、テミスは小さな声で呟きを漏らす。
見た所、私があのとてつもない苦痛を感じていたのは数秒……長くても数分の事だったのだろう。
こんな所に人が倒れ伏していれば、町を行き交う人が集まるなり、通報を受けた自警団の者達が居るはずで。
けれど、過ぎ去った今も尚、克明に思い出せるほどの苦痛が幻だったはずも無く、吹き出た汗を吸って重くなった衣服がそれを証明していた。
「フム……兎も角、こうしている訳にもいくまい」
何はともあれ、何事も無く苦痛は過ぎ去ったのだ。
そう考えた途端、テミスは一層強くなった自らの肌に張り付く衣服の不快感に眉を顰めながら、足早にマーサの宿屋へと帰り着く。
そして。
「あっ! お帰りテミス! 今日はいつもより早かったんだね?」
「まぁ……な……。っと……帰るなりですまないのだが、部屋に湯を持って来てもらっても構わないだろうか?」
「ん? お湯? どしたの?」
「いや……その……少々汗を流したくてな……」
戸口を潜ったテミスを、子犬のように出迎えるアリーシャに応しながら、テミスは極力食堂の方へと近付かないように気を配っていた。
いくら家族同然の扱いをして貰っているとはいえ、ここは宿屋であり酒場であり飯屋なのだ。なればこそ、汗の臭いを漂わせながら我が物顔で闊歩するなんて論外だし、個人的な感情としても、出来得ることなら一秒でも早くこの気持ち悪さから解き放たれたい。
「あ~……なるほど。チョット匂う……かな? 確かに、このまま入ったらお母さんに怒られそう」
「っ……嗅ぐなッ!! 気持ち悪いだけだろう……」
「気持ち悪いなんてことは無いよ? にしても珍しいね。私との訓練の時も、テミスいつも汗一つかいてないのに」
「ン……」
「りょーかいっ! ちょっとだけ待っててね! お母さんに言ってすぐに持っていくから!」
言葉と共に、アリーシャがその場でクルリと一回転してはにかむと、ふわりと給仕服のスカートが花弁のように広がって舞った。
その後、アリーシャは唐突な問いに言い淀んだテミスに満面の笑みを向けてそう告げると、いつもより心なしか素早い足取りで店の奥へと入っていったのだった。




