810話 備えの成果
ミュルクが病院へと運ばれた後、テミスとフリーディアは集まった兵達に指示を出して事態の収拾を付けると、二人揃って執務室へと足を踏み入れていた。
しかし、未だに階下からは扉を修繕する音や、冷めやらぬ興奮で言葉を交わす者達の声が響いており、それがより一層テミスの気持ちを陰鬱にさせた。
「ひとまず、座ったら? ……と、私が言うのは変かしら? 本来なら、貴女の部屋なのに」
「いや……」
「何を萎れているの? らしくないわね。事情は聴いたって言ったでしょう?」
「う……うむ……」
「もぅ……ほらっ!!」
「っ……!」
フリーディアは小さくため息を吐くと、自らの執務室だというにもかかわらず、俯いたまま立ち尽くすテミスの背を押して、半ば無理矢理に彼女の席へと座らせた。
そして、自らは書類の散らばった机の反対側へと回り込むと、腰に手を当てて苦笑いのような中途半端な笑みを浮かべる。
「贔屓目に見ても、突然攻撃を仕掛けたリックが悪いわ。貴方はただ、自分の身を守っただけ……ちがう?」
「だが――っ!」
「えぇ。反撃とはいえ、どう考えてもやり過ぎなのは間違い無いわ。でも……」
自らの椅子に腰かけたまま抗弁するテミスを眺めながら、フリーディアは一度言葉を切ると、脳裏にミュルクの顔を思い浮かべて苦笑する。
これでは、立場が全く逆じゃない。
本来、ロンヴァルディアから派遣されている白翼騎士団の団長である私は、テミスの過剰な反撃について追及し、この町における主導権を少しでも拡大すべく動くべきなのだろう。
部下の行動は上官である私を慮ったが故の行動であり、部下にそのような疑念を抱かせたテミスが悪いのだ……と。
けれど、それはあくまでも政争の話。私の戦友が理由も無く、理不尽な暴力を振りかざすような人間でない事は重々に承知している。
「こうなった事には何か理由が……原因があるのでしょう?」
「っ……。あぁ……」
ぎしり。と。
テミスは小さく息を呑むと、自らを見つめるフリーディアの視線から逃れるように目を背けて頷いた。
私の戦力が不安定になっている……できればこの事実は、フリーディアにも知らせぬままに決着を付けたかった。
だが、事態がこうなってしまった以上は説明をする他に選択肢は無く、テミスは観念してフリーディアへ原因を語って聞かせる。
そして、いつの間に準備を始めていたのか、ふと気が付けばテミスの眼前から移動したフリーディアが淹れたコーヒーの香りが鼻をくすぐった頃。
テミスはあらかたの現状に加えて、先程の騒動の一部始終を語り終えた。
「ハァ……全く……。気持ちは嬉しいのだけれど、リックには困ったものだわ……」
すると、フリーディアは湯気の立つコーヒーカップをテミスの前へと差し出しながら、深いため息を吐いて言葉を続ける。
「でも、今回の事はリックには良い薬になったでしょう。勿論、後で誤解を解く必要はあると思うけれど」
「……やけに冷たいんだな?」
しかし、テミスは差し出されたコーヒーに手を伸ばす事無く、穏やかに笑みを浮かべるフリーディアへ視線を向けて、呟くように問いかけた。
コイツの性格を考えれば、腹心の部下を傷付けた私を許すはずが無い。だというのに、こうして笑みを浮かべている理由はただ一つしか考えられない。
この笑顔の正体は、怒りが頂点を越えて振り切れた動かぬ証拠。今に気持ちの整理が付けば、フリーディアは間違い無くこれまでにない程に怒り狂うだろう。
「だって、テミスは何も悪くないじゃない。執務だってリックが知らないだけで、私が宿舎へ戻った後にやってくれたのは貴女でしょう?」
「っ……。だが、お前に執務を丸投げしていたのは事実だ」
「言い方が悪いわ? 私に任せてくれていたんでしょう? それに、貴女の調子がおかしい方が重大だわ」
「む……むぅ……」
だが、そんなテミスの予測を大幅に裏切って、フリーディアは真剣なまなざしでテミスの目を見て言葉をかける。
一方でテミスといえば、真正面から慰めとも優しさともつかない正論を投げかけられ、返す言葉に窮して唸り声をあげる事しかできなかった。
「そんなに気にする事無いわよ。言ったでしょう? リックが勤勉で良かったわね……って」
「ン……あ……あぁ……」
「リックの装備は特別製なのよ。彼はほら……独り身だから。最近はどうも、その分自由に使える給金を自分の剣や鎧につぎ込んでるみたいなの。だからこそ、貴女の一撃を受けても無事だったのね」
「なる……ほど……」
何処か物憂げな表情で言葉を続けるフリーディアに、テミスは胸の内の違和感がゆっくりと氷解していくのを感じながら、曖昧に返答を返す。
確かに、私がミュルクに対して放ったのは能力も何も使っていないただの斬撃だ。なればこそ、斬り付ける刃がブラックアダマンタイトであっても、対する装備が強靭な素材でできたものであれば受け止める事ができるのも道理だろう。
「クス……。魔力も闘気も込めていないただの斬撃たった一発で、リックの鎧をあそこまで壊しておいてその表情? 貴女のブラックアダマンタイトには劣るけれど、彼の鎧も剣も、硬魔銀製なのよ?」
「……それは、悪いことをしたな。彼の装備の修理は私が持とう」
小さな笑みを浮かべて告げたフリーディアに、テミスは僅かに目を見開いた後、バツが悪そうに言葉を返した。
硬魔銀。何処か自慢げに語るフリーディアの口ぶりからしてかなり高価な素材なのだろう。白翼騎士団の騎士の給金が一体いくらなのかは知らないが、一介の兵士の賃金で揃えるには、かなりの苦労があったはずだ。
「それが良いわ。もちろん、テミスの私費でね。それで、今回の件はチャラ。貴女もリックも気にしないのが一番だわ」
「フム……そんなものか……」
そう言ってにっこりと笑うフリーディアに、テミスはゆっくりと出されたコーヒーに口を付けながら、曖昧に言葉を返したのだった。




