808話 青き忠義
コイツはいったい何を言っているのだ?
いきり立つミュルクの怒声を聞いたテミスの脳裏に真っ先に浮かんだのは、ただ純粋な疑問だった。
ミュルクという男を端的に一言で言い表すのならば、『フリーディアの忠犬』だ。
何事もフリーディアの意志を一番に置き、彼女の命とあらば恐らく、喜んで自らの命をも棄てるだろう。
その証拠に以前の戦いでは、フリーディアよりも先んじて私に斬りかかってきた事もあったほどだ。
だが、そんな男に決闘を挑まれる程に恨まれるなど、身に覚えがないにも程がある!!
「…………」
「どうした! よもや世に勇名を轟かせるテミスともあろう者が怖気づいたのか!?」
しかし、そんなテミスの疑問とは裏腹に、ミュルクは一人で勝手に気勢を上げ、続く言葉でテミスを挑発していた。
その声は次第に周囲の注目を惹き、中庭で鍛練に励んでいた兵達が手を止め、何やら書類を抱えて通りがかった者は足を止め、更にはわざわざ部屋から顔を出してまで見物に来る者まで出てくる始末だった。
「ハァ……下らん。退いて貰えるかな? お前の決闘とやらに付き合う理由が無い」
「っ……!! 貴様ッ……どの口でそんな事をッ……!!」
「全く……何をそんなに怒り狂っている……?」
深いため息と共にテミスがあしらう姿勢を見せると、ミュルクはぎしりと歯を食いしばって更に怒りを燃やし始める。
いつものテミスであれば、稽古を付けてやる感覚でこの決闘を受け、軽く揉んでやっても良かったのだが、なにぶん今は時期が悪い。加減の効かないテミスの現状を鑑みれば、このような決闘を受けられるはずも無かった。
「怒る事など当り前だろう!! フリーディア様が心身を削って執務に励んでおられるというのに、お前はこんな所で何をしている!?」
「あぁ……」
「お前が俺の言葉など一顧だにしない事など承知の上だ!! だからこそ、この決闘に俺が勝利した暁には、即座にフリーディア様を解放してもらうッッ!!」
直後。修羅の如き形相で吠えたミュルクの言葉を聞いて、テミスの抱いた疑問がようやく氷解する。
つまるところ、このミュルクと言う青二才は、自らが敬愛するフリーディアが仕事をしているというのに、剣を振るっている私が気に食わないのだ。
それは確かに、忠犬としてならば見上げた根性なのだろうが、組織の中に身を置く者としては致命的と言っていい程の失態だった。
「やれやれ……飼い犬の首輪くらいしっかり締めておけよ……」
「何ィッ……!?」
再び、テミスが巨大なため息と共に皮肉を零すと、それに反応したミュルクが怒りで火照った顔を更に赤く染めていく。
だがそれに対してテミスはあくまでも冷淡な対応で、まるで付きまとう子供をあしらうかのように淡々と言葉を並べ立てる。
「お前には関係無い事だ」
「あるッ!!! 白翼騎士団の一員として……フリーディア様の部下として、このような横暴……決して見過ごすわけにはいかない!!!」
「フリーディアが来るのならば理解もできる。当の本人が納得しているというのに、何故お前が出て来る?」
「お前がッ……!! フリーディア様の優しさに付け込んでいるからだろうッッ!! 執務を投げ出す正当な理由があるのなら、今ここで弁解してみろッッ!!!」
「…………」
だが、完全に頭に血の昇っているミュルクと、ただ正論を並べ立てるだけのテミスの会話が成り立つはずも無く、その結果テミスはただ呆れ果てた顔を浮かべる事しかできなかった。
「そら見た事か!! お前に述べられる理由など無い!! 言葉を返す事ができないのが何よりその証拠だッ!!」
「……飼い犬風情が……少しは立場を弁えろ」
そんな沈黙に勝ち誇った表情を浮かべたミュルクが、テミスに指を突き付けて高らかに声をあげた瞬間だった。
ゆらりと身体を揺らしたテミスが、ミュルクを睨み付け、凄味の効いた声で口を開く。
「例え、私が怠慢を理由にフリーディアへ執務を押し付けていたとしても。一兵卒たるお前に口を挟む権利は無い」
「っ……!!」
言葉を紡ぎながら、テミスは一歩、また一歩と前進を続け、その気迫に気圧されたミュルクは歯を食いしばり、まるで道を譲るかのように後ずさっていく。
事実。テミスやフリーディアの持つ情報と、ミュルクが知り得る情報には大きな乖離がある。
他の一兵卒連中に比べれば、フリーディアの手助けをしているミュルクは多少そういった情報に明るいのだろうが、それでもマグヌスやサキュド、そしてカルヴァスにすら遠く及ばない。
「理解したのなら。二度と囀るな。邪魔だ」
「クッ……!!!」
テミスは苛立ちをも込め、半ば脅すようにミュルクに釘を刺すと、扉際にへばり付くようにして立つまで追い詰めたミュルクに背を向けて、詰所の中へと足を向けた。
これだけ盛大に脅しておけば、少なくとも暫くはミュルクが喧嘩を売って来る事は無いだろう。
そんな事を考えながら、テミスは水を補給するべく歩き始めた。
……のだが。
「ッ……!!! ッ……ゥオオオオォォォォォッッッ!!!! ふざけるなァァァァッッッ!!!」
「――ッ!?」
突如として雄叫びをあげたミュルクが剣を抜き放ち、大上段に振りかぶってテミスの背へ向けて振り下ろした。
無論。怒りに呑まれているとはいえ、ミュルクとて本気でテミスを斬る気など無い。だからこそ、振り上げられた剣の刃は立てられておらず、テミスには剣の腹が向けられている。
しかし、ミュルクへ背を向けているテミスがそんな事を知るはずも無く、テミスは半ば反射的に振り下ろされた剣を弾き飛ばすべく大剣を振り上げた。
刹那。
「ッ……!!!」
ガィンッ!! と、金属が打ち合う音が一度だけ鳴り響いた後。
詰所の入り口を振り抜かれた剣圧によって吹き荒れる風が舞い踊る。
そして、咄嗟に剣を振り抜いたテミスの背後には、斬撃の形に大きく切り裂かれた扉がぶら下がっているだけで、そこには襲い掛かったはずのミュルクの姿は無かったのだった。




