806話 見えざる絆
一方その頃。
フリーディアはまるで幽鬼のように血色の悪い顔で、山積みの書類を相手に激戦を繰り広げていた。
ブライトとの戦いが終結してから数日。戦後処理を含めた方々への手配や、救援に駆け付けてくれたルギウス達への対応、そしてファントが友好的な関係を結んでいる魔王軍への説明など……フリーディアは朝から晩まで、絶え間なく押し寄せてくる書類を、休む間もなく捌き続けているのだ。
「うぅっ……こんなの無理!! って投げ出せないギリギリの量なのがまた憎らしい……」
フリーディアは内容を確認した書類にペンを走らせると、寝不足と疲労からくる頭痛を歯を食いしばって堪えながら呻くように呟き、次なる書類に手を伸ばす。
そう。ここはファントの町であり、フリーディアもその内部を全て熟知している訳ではない。故に本来であれば、怒涛の勢いで押し寄せる懸案を前に、とっくの昔に音を上げていてもおかしくは無かった。
だが……。朝は日の出から、夜は月が天頂を越える頃まで。フリーディアが延々と机に齧り付いて尚、太刀打ちし切れない筈の仕事は、何故か今日も正常に回っている。
「全く……素直に手伝ってくれればいいのに……」
ボソリ。と。
フリーディアは鈍痛を越えて軋みを上げる腰を伸ばしながら呟くと、ふとその視界の隅を過った窓の外に、特大の欠伸を疲労しながらこちらへとやってくるテミスの姿が目に入った。
酷く眠たそうに目を擦りながら、中庭で訓練に励む兵達を労いながら、時刻が既に昼前といっても良い頃合いに差し掛かったこの時間に詰所へと赴くその姿は、ともすれば指揮官としての資質すら問われかねない。
加えて言うのなら、詰所の兵達は連日フリーディアがこうして激務に勤しんでいるのを知っており、既に白翼騎士団の騎士達の中からはテミスの怠慢を責める声も上がっている。
「ホント……優しさを見せない人よね……」
そう独り言を呟いて姿勢を戻し、フリーディアは机の隅へと寄せてあった書類の山へ視線を向けた。
そこにあったのは、主に魔王軍へ向けた書類の数々で、勝手を知らぬフリーディアが手掛けたのであれば、これだけでゆうに数日は食われてしまうであろう問題だった。
だが今朝、フリーディアが重たい足を引きずりながら、まだ日も出ぬ頃にこの部屋を訪れてみれば、何者かによってこれらの書類は既に処理されており、そればかりか整理すらままなっていなかったはずの書類たちが、きっちりと分別されて積み上げられていたのだ。
だからこそ、どこかの誰かはこんな時間に眠たい目を擦る羽目になっているのだろう。
「フリーディア様ッッッ!!!」
「……。ハァ……」
そんな、怨み切れない胸の内に苦笑いを浮かべるフリーディアの元へ、寝不足の頭によく響く怒声を上げながら、怒り心頭のミュルクが執務室の戸を蹴破らん勢いで開けて飛び込んでくる。
「ようやく来ましたよ!! あの厚顔無恥な痴れ者がッ!! それも、さも気怠そうに大欠伸なんかを周囲の者達へ見せ付けながらッ!!」
「あのね、リック――」
「――いいえフリーディア様!! 今日こそは我慢なりません!! 連日フリーディア様がこうして身を粉にして働いていらっしゃるというのに……自分はこのようなふざけているとしか思えない時間まで惰眠を貪っているなど……断じて許されない行為です!!」
「リックッッッ!!」
「っ……!!」
フリーディアが制してなお、その滾る怒りを留める事無く部屋の中へぎゃんぎゃんと怒声を響かせるミュルクに、フリーディアは顔を顰めて叫びをあげた。
正直に言えば、リックの言い分もわからなくはない。
昼間の時間にテミスが何をしているかと聞いてみれば、ただ難しい顔でひたすら鍛練に勤しんでいるだけだという。ならば、わざわざ夜中に手助けなどしなくとも、一緒に仕事をこなして欲しいという思いもある。
だが……影ながらの助力すら知らない者にこうも悪しざまに罵られては、気分の良いものでは無かった。
「大声を出さないで頂戴。頭に響くの」
「も……申し訳ありませんッ……!!」
「テミスにはテミスの考えがあるんでしょう。実際……何とか仕事は回っているわ」
「ですがッ……!!」
「用件がそれだけなら下がってくれるかしら? 何も問題は無いし……貴方が気に病む事では無いわ」
「ッ……。…………申し訳……ありませんッ……!!!」
冷たく言い放たれたフリーディアの棘のある言葉に、ミュルクはまるで痛みを堪えるかのように歯を食いしばり、拳を握り締めると深々と頭を下げる。
普段のフリーディアならば、例え苛立ちを覚えたとしても即座に悋気を胸の奥へと呑み下し、もっとミュルクの事を慮った言い回しをしたのだろう。
だが、疲れ果てた今のフリーディアにそのような余裕は無く、去っていくミュルクの背を一瞥すらくれる事は無く、ガリガリと乱暴に頭を掻きながら、次なる書類へと手を伸ばしていたのだった。




