幕間 孤高の終わり
「っ…………! 行った……か……?」
ゴクリ。と。
テミスが空の彼方へと飛び去った後、その姿を追って空へと目を向けたルギウスは、生唾を呑み込んで呟きを漏らした。
その呟きに返ってくる言葉は無く、それを確認したルギウスはようやく、味方であるはずなのに、背筋を凍らせるほどの圧倒的な威圧感から解き放たれてその場に膝を付いた。
「恐ろしい……この僕が……? テミス……君は一体……」
遅れて噴き出る冷や汗を拭い、ルギウスはその場に居ないテミスへと向けて、返ってくる筈の無い問いを繰り返した。
これまでも、戦場を駆けるテミスの目を見張るほどの強さを幾度となく目の当たりにし、ルギウスはその度に驚愕していた。
否。人間の身でありながら、よくぞそこまで鍛え上げたとすら思うその感情は、驚愕を通り越して感心の域に達していただろう。
しかし。
「アレは……本当に君なのか……?」
チラリ。と。
ルギウスは自らの傍らに倒れ伏すアナンへと視線を向けながら、未だ震えの止まらない全身に活を入れて無理矢理に身体を起こす。
人も魔も、剣を振るう時には必ず、胸にくべた感情が籠る。
だがさっき見たテミスにはそれが無かった。
業火のような怒りも、氷のような憎しみも無く、テミスはまるで空を薙ぐかの如く、ただひたすらに無感情に、このアナンという少女の命を刈り取ろうとしていた。
「っ……」
「……んだよ? 殺すなら……さっさと殺せよ」
しかし、戦慄に震えるルギウスの内心など、敵であるアナンが推し量るはずも無く。
アナンは不貞腐れたようにひしゃげた四肢を地面へと投げ出し、辛うじて動くらしい顔を明後日の方向へ向けて言葉を続ける。
「痛ぇ……痛ぇんだよ畜生……。ロクに動けねぇ私がこんな所に放置されたら、どうなるかなんて解ってる。だから……」
その声は次第に涙に濡れた震え声へと変わっていき、ルギウスが視線を向けた先でアナンはその小さな肩を密かに震るわせていた。
「…………」
けれど、ルギウスがアナンの言葉にあえて返答を返さず、静かに見下ろしたまま思考を巡らせる。
たとえその命を落とす運命に変わりが無かったとしても、仲間に救助され、連れ帰って貰えるものはむしろ幸運といえるだろう。
逆に、このアナンのように。不運にも戦場で生き残ってしまった者の末路は悲惨なものだ。
血が流れ出し、息絶えるその瞬間まで受けた傷の痛みに苛まれ続けるか……それとも盗賊や野党の類に囚われ奴隷と成り果てるか……はたまた血の匂いに誘われた魔獣に生きたまま食われるか。
どんな結末を辿ろうと、その行く末に待っているのは絶望だけだろう。
「ふぐっ……クソッ……クソッ……畜生ォッ……!」
せめて、そんな悲惨で絶望的な最期から逃れたいと願うアナンの声からは既に虚勢が剥がれ落ち、年相応な少女の懇願となっていた。
アナンの傷は深い。だからこそ、たとえ彼女が屈強な男の戦士であろうとも、同じ事を願っただろう。
だが不幸にも、彼女は少女。ロクな治療の技術も持たない野党や盗賊に見付かった時には、より悲惨な結末が待っている。
「アナン……」
「っ……?」
熟考の末、ルギウスは声にならない泣き声を上げるアナンへ重く口を開く。
「君はこの戦いを『仕事』だと言ったね? 金を……対価を用意すれば何でもやる……と」
「あぁ……全く……割に合わねぇクソ仕事だった。おかげでこのザマさ……」
「……ならば問おう」
淡々と紡がれるルギウスの言葉に僅かながらも気力を取り戻したのか、アナンは投げやりな口調でその問いに答える。
すると、ルギウスは重い足取りでアナンの間近まで歩み寄ると、涙の跡が残るその顔を覗き込んで言葉を続けた。
「僕に従属し、仕える気はあるかい? 勿論、君の矜持や考え方は全て棄て去り、君が蔑んだこちらの流儀に従って貰う」
「なっ……何……言って……」
「報酬は衣食住と……君の命だ。多少なりとも給金……いや、小遣いも約束しよう」
「ハッ……お前に、飼われろってか……?」
「そうだ」
コクリ。と。
ルギウスは皮肉気なアナンの言葉へ即座に頷くと、地面へと投げ出されている彼女の両腕を身体の上へと移動させる。
その静やかな瞳には有無を言わさぬ意志が宿っており、まるではじめからアナンの答えなど聞く気すら無いように思えた。
だから……。
「その仕事、有難く……受けさせて……貰う……ぜ……」
アナンは精一杯の意地を貫いてそう言い残すと、ガクリと意識を失ったのだった。




