幕間 狭間の幸福
「ブライトの目的はテミスの状態を確認する為……密告があったそうよ。彼女が重傷を負った……とね」
静まり返ったファントの執務室。そこでフリーディアはレオンとミコト、そしてサキュドとマグヌスを前に、湯気の立つティーカップを燻らせながら静かな声で語り始めた。
「あなた達とここで話した後、私はクラウスの……爺の元へ向かったわ」
ブライト達がファントを視察に来たあの日の夜。
クラウスがあのような暴挙を赦すなんていう事を信じられなかったフリーディアが、彼等の滞在する宿へと踵を返すとそこには、まるでフリーディアを待っていたかのように、宿の前で静かに佇むクラウスの姿があったのだ。
「っ……!! クラウス!!」
「おぉ……フリーディア様……。やはり……いらっしゃりますか……」
「……当り前よ。少し……歩きましょう?」
「仰せのままに」
声をあげて歩み寄るフリーディアに、クラウスは一瞬だけ表情を輝かせた後、ばつが悪そうに視線を逸らすと、フリーディアの提案に小さく頷いた。
「早速で申し訳ないのだけれど……単刀直入に聞くわ。爺。何故貴方がここに? 彼は何の為にこの町へ来たの?」
「……。ホホ……。これは手厳しい。急いては事を仕損じる……そう教えたはずなのですがね?」
ファントの町の中心へ向けてゆっくりと歩を進めながら問いかけるフリーディアに、微かながらも柔らかな笑みを浮かべたクラウスが、まるではぐらかすかのように言葉を濁す。
しかし、その優し気に細められた温かな瞳は、傍らを歩くフリーディアへと注がれており、会話の内容こそ不穏なものであったが、その雰囲気は孫との会話を楽しむ祖父のものだった。
「気が急くのも仕方ないわ。せっかく爺がファントへ来たのだもの。嫌な話なんて早く終わらせて、色々と案内して回りたいわ?」
「っ……!!! これは……困りましたなぁ……」
「見せたいもの……沢山あるんだから。美味しいものも……楽しい所も、優しい人も!」
「それは……。あぁ……とても楽しみです……」
恐らく、無意識での事なのだろう。
フリーディアは何処か幼げな口調でそう告げると、くるりとクラウスをふり返ってその顔を見上げる。
その屈託のない無邪気な笑顔に、クラウスはくしゃりと表情を緩めた後、ゆったりとした足取りでフリーディアの後を追いながら、闇の帳の下りた空に目を向けて口を開く。
「何から……お話しするべきでしょうか……。そうですね……今の私はクラウス様の相談役の任を仰せ付かっております」
「相談役……」
「えぇ。いわばお目付け役ですかな……。なにぶん、先日の会談の一件を軍部が正式に抗議したそうで」
「あぁ……。それで貴方が……」
クラウスの言葉に、フリーディアは得心がいったかのように深く頷くと、苦笑いを浮かべて件の一件を思い浮かべた。
あの時のブライトの行いは、見てられない程に滑稽なものだった。彼のロンヴァルディアの為という思いは立派だが、それ故に彼は空回りする事が多いのだ。
「はい。故にこの度も、手痛い勉強になれば……と。ですが誤算でした。よもや、ブライト様が私兵を擁しているとは……」
「っ――! 私兵!?」
「……ただの私兵ではございません。軍部との均衡を図る為に議会の指揮下に置かれた選りすぐりの冒険者将校たち。彼等に対し、もしもの時の為に伝手を繋いでいたご様子」
「はぁ……よりにもよって……か……」
二人はファントの中心。
二つの目抜き通りが交叉する広場に足を踏み入れると、フリーディアは大きなため息を吐いて不意に足を止めた。
そして、密かに拳を握り締めた後、小さく息を吸い込んでクラウスを振り返って問いかける。
「……それで? クラウス。貴方はどうするつもりなのかしら?」
「…………」
道行く人々の流れが傍らを通り過ぎていく中、今までのものとは一転し、毅然とした雰囲気を纏ったフリーディアと、古木のように変わらぬ穏やかさを醸し出すクラウスが向かい合う。
その問いをフリーディアが口にしてから、喧噪の狭間に揺蕩うだけの時間が一秒、二秒と過ぎた時だった。
フリーディアがただ静かに微笑みを浮かべ、口を噤んだまま立ち続けるクラウスの意図に気が付いたのは。
「……。そう……」
答えがない事こそが、何よりも雄弁な答えなのだろう。
クラウスは長年、父の代からロンヴァルディアに仕えてくれた忠義の人だ。
ならば彼の忠義が、己が志の為にロンヴァルディアに刃を向けんとする私と、ただロンヴァルディアの為だけに力を振るわんとするブライトのどちらに捧げられるのかなど、考えるまでもない事だ。
故に。クラウスは答えなかったのだ。
今はまだ、口を噤む事で。他でもない……フリーディアの爺で居るために。
「っ……!! わかったわ。なら……案内させて頂戴? 沢山お話をしましょう? この町、爺と行きたい所ばかりなのだから!」
「ホホ……。そんなに……走ると転んでしまいますぞ?」
刹那。
クラウスの意図を察したフリーディアは僅かに歯を食いしばると、即座に身を翻して笑顔を形作り、クラウスの手を引いて元来目指していた目的地であるマーサの宿屋へ向けて駆け出した。
そんなフリーディアに手を引かれて、クラウスはその瞳を揺らしながら、とても優し気な声でそう告げたのだった。




