802話 ほんのわずかなすれ違い
この世に悪が存在する限り、私が振るう断罪の刃が止まる事は無い。
それこそが、この世界に新たな生を受けた私に課せられた使命であり、ただ一つの望みであったはずだった。
だが、一体いつからだろうか。
この血濡れた私の胸の内に、悪逆を滅ぼさんと欲する渇望と同じくらい、その笑顔を護りたいと思う感情が芽生え始めたのは。
諦めたはずだった。罪を犯した者とはいえ、人魔を問わず幾人もの人々を殺した私が何故、彼女たちと同じ平穏を享受できるのかと。
――ならば何故。ファントにヤマトの難民達を招き入れた? イヅルの店をはじめとする、この町で暮らす転生者たちの知識は、少なくともファントの平穏には無くても問題無い筈のものだ。
斬り捨てたはずだった。悪逆を滅ぼす為にはそれに勝る力が要る。故に、この身に宿る忌まわしき力を振るわざるを得ない。だが、強大な力は争いを引き起こすのだと。
――ならば何故。お前はこうして剣を手に、ファントの町を護るために戦っている? この町の兵は弱くは無い。だからこそ今こうして前線に出張らずとも、獲物をもっと深く誘い込ませてから、確実に仕留めれば良かったはずだ。
「フッ……」
テミスはフリーディアへと背を向けたまま小さく微笑みを浮かべると、煌々と無機質な光が揺蕩う、微かに白み始めた空を仰ぐ。
もう、この胸の中で渦巻いていた溝泥のような蟠りは無かった。
あったのはただ、虚無感にも似た喪失感と、どうしようもない寂しさ、そして左手に走る痺れに似た痛みだけ。
チラリと視線を向ければ、そこに握られていた筈の漆黒の大剣は、影も形も無かった。
「そうか……。私は……負けたのだな……」
「っ……!!!!」
ボソリ。と。
テミスがそう小さな声で言葉を漏らすと、背後から息を呑む音と共に、フリーディアが固く歯を食いしばる音が聞こえてくる。
だが不思議な事に、湧き出てくる筈の感情は無く。その心の内はテミス自身ですら驚く程に凪いでいた。
「貴女ッ……ねぇ……ッッッ!!!」
そして数秒後。
遂に堪りかねたのか、怒りで顔を真っ赤に染めたフリーディアが怒声と共に歩み寄ると、テミスの左肩を掴んで半ば強制的に視線を合わせて言葉を続ける。
「どういうつもりよッ!! 貴女の殺意は本物だった!! なのにッ……!!」
「さぁ……な……しいて言えば……」
テミスはフリーディアの為すがままに身体を預けると、数秒前に自らの脳裏を過った想いを素直に口に出す。
「しいて言えば少し……そう……勿体なく思ったのだ」
「勿体……ない?」
数秒前。
私の振りかざす大剣とフリーディアの繰り出さんと構える剣が交叉する刹那。
私の振るった剣は確かに、フリーディアの繰り出す一撃を粉砕するはずだった。だがしかし、私は胸の中に渦巻く迷いを完全に断ち切る事が出来ず、僅かな迷いが生じたのだ。
果たしてあの、ブライトという屑にも劣る男一人を殺す事が、フリーディアの命をこの手にかけてまで行う程の価値があるのか……と。
そんな一瞬の迷いは判断を鈍らせ、ほんの一瞬……あろう事か固く握り締めていた筈の手を緩ませてしまった。
ただ、それだけの話だった。
「あぁ……初めて私を友と呼んだお前を殺すくらいならば、ブライトの命で茶々を入れて来る連中を殺すほうがマシだ……とな」
テミスがそう口にすると同時に、その背に残っていた片翼が音も無く崩れ、燐光となって虚空へと消えていく。
私の戦いは終わったのだ。
結局この世界でも、私の想いが遂げられる事は無いのだろう。
誰だってそうだ。未来に目を向けた時、その損得こそが正義と悪を決するのだ。悪逆に対する憎しみだけで戦う私など、世界が変われど受け入れられるはずも無い。
「っ……!! フフ……何よそれ……貴女らしくない事言っちゃって……」
「別に……己の命をも賭して殉じてきたものを棄てるのだ……その程度の理由を付けるくらいの事をしても良いだろう」
「へっ……? ええと……その……」
「……? 何だ? その素っ頓狂な顔は……?」
そんな、何処か哀愁にも似た雰囲気を醸し出すテミスに対して、フリーディアは目を丸くして驚きの声をあげると、テミスの眼前でその身を硬直させる。
そして、数秒の間沈黙が流れた後、フリーディアはその豊満な胸をさらに膨らませる程に大きく息を吸い込むと、長い逡巡を経て巨大なため息を一つ吐き、酷く言い辛そうに口を開く。
「確かに私は、ブライトを殺すな……とは言ったけれど、今回は貴女のその意固地な生き方までも否定したつもりは無いわよ? まぁ、私個人としては……その方がありがたいのだけれど……」
「なっ……!?」
「ハァ……言わないのも良く無いわよね……。今回の事で、主義を曲げるのは私の方よ」
その言葉に、テミスは表情を驚愕のそれへと一転させ、あまりの衝撃に口すらポカンと開けて凍り付いた。
「そ……そう! 友好を結んでおきながら侵攻するなんて言語道断よ。正直に言うのなら、処刑したって足りない大罪だわ。と、いう訳でどうかしら? ブライトを殺さない代わりに、彼にとって死ぬよりも辛いだろう罰があるのだけれど……」
だが、凍り付くテミスに気付く事無く、フリーディアはまるで普段のテミスのような意地の悪い笑みを浮かべると、静かな声でそう告げたのだった。




