801話 魂の一刀
「っ……!!」
ぎしり。と。
ブライトが無様な格好で逃げ出し始めるのを視界の端に収めながら、テミスは固く歯を食いしばっていた。
ここで奴を逃がす訳にはいかない。
今のフリーディアへの捨て台詞から見て取れるように、奴も死なねば治らぬ類の馬鹿だというのは明らかだ。
だが……いつの間にここまで鍛え上げたのか、それともクラウスとの戦いが彼女を急速に成長させたのか……今のままでは、ブライトに追い縋る事すらできないだろう。
「…………」
「もう……解ったでしょう? 貴女は間違っている……ブライトは殺させないわ」
膝を付いたクラウスへと目配せをしたフリーディアはテミスへと視線を戻し、不敵な笑みを浮かべてそう云い放った。
しかし、テミスはそんなフリーディアを黙殺すると、ただ一人胸の中でひとりごちる。
今この場でブライトを始末する為には、私も本気になる必要がある。
無論……手加減をしていた訳ではない。私はこの能力を使って全力を尽くして戦っていた。
おそらく、ここが最後の分水境なのだろう。
本気でフリーディアをも殺して正義を貫くか、それとも……。
「ハァ……」
テミスは小さくため息を吐いた後、顔を上げて静かな瞳でフリーディアを直視する。
翼は切り落とされ、肩を外された右腕は使えない。その上相手のフリーディアは、まるで私の動きを予知したかのように、攻めるにも守るにも悉く先手を打ってくる。
最早分が悪い……などという次元の話ではなかった。たとえここで、敵を追い返したぞと勝鬨を上げ、ブライトを見逃したとしても、誰に責められる謂れも無い筈だ。
けれど……。
「……時間が無い。一撃で決着を付ける。覚悟は良いか、フリーディア」
「っ……!! テミス……」
カチャリ。と。
テミスは残った左手だけで大剣を半身で構えると、静かな声で口を開いた。
その全身からは、フリーディアの背筋を粟立たせるほどの冷たい殺意が放たれており、その気迫がテミスの言葉に偽りがないことを証明していた。
「そう……。良いわ。貴女が意地を通すというのなら、私も死力を尽くして意地を通しましょう」
「っ……!!」
言葉と共に、フリーディアは笑顔を消して剣を構えると、覚悟の籠った瞳でテミスの視線を受け止めてみせる。
しかしテミスとは異なり、フリーディアからは並々ならぬ気迫は感じられるものの、そこには欠片たりとも殺意は込められていない。
「テミス。後悔の無いように全力で来なさい。貴女が自分の事を救えないというのなら、貴女の事は私が救ってみせる」
「世迷言をッ……!!!」
毅然と言い放ったフリーディアに対して、テミスは吐き捨てるようにそう呟くと、片手で構えた大剣の柄を固く握り締めて集中を高めていく。
ブライトが私情に駆られて起こしたこの騒動は、決して許されるものでは無い。他者の平穏を奪い取ろうとした悪人がのうのうと息をしている事など、私の正義が許さない。
「ふぅっ……」
同時に、フリーディアもまた構えた剣に力を籠めると、テミスの一挙手一投足に注目して集中する。
ここでテミスにブライトを殺させてしまえば、テミスは彼女の言う通りの化け物となってしまうだろう。
誰かを傷付けようとした者を悪と見做し、ただひたすらに殺す事で排除していく……そんな虐殺者に。
確かに、テミスの根底にあるのは悪逆に対する怒りや憎しみなのかもしれない。
けれどテミス、見失ってはいないかしら? 貴女の振るう剣は既に許されざる罪を犯した者を斬り捨てるもの……貴女の介入によって留まった者を斬る為のものでは無いと。
「ッ……ハァッ!!!」
「フッ……!!」
一瞬の静寂の後。
二人はまるで示し合わせたかの如く、全くの同時に前へと飛び出すと、全く同じ構えで大きく剣を振りかぶった。
動かぬ右腕をだらりと垂れ下げたまま前へと駆け、全身を巻き上げて剣を振り上げたテミスと、低く姿勢を落として前へと飛び出し、まるで限界まで引き絞った弓矢のように下段に剣を構えたフリーディア。
互いの構えは、自らの身体を敵の前へと晒し、渾身の一撃を以て相手を粉砕する為のものだ。
故に、急速に縮まる二人の距離がお互いの射程圏に入っても、構えられた二振りの剣は肉薄し、交叉する瞬間まで微動だにする事は無かった。
そして。
「っ……」
「…………」
ガギィィンッッ!!! と。
たった一度だけ、剣を合わせる大きな金属音が打ち鳴らされたのだった。




