786話 志は淡く、砕けて散って
「失礼致します」
「…………」
突如として姿を現したイルンジュは、衣擦れの音すら立てずに病室の中へと足を踏み入れると、カラカラと音を立てて部屋の戸を閉める。
そして、窓の外から差し込む鋭い光を浴びながら、ベッドに腰掛けたまま返事を返さぬテミスへと視線を向ける。
「……よろしいのですか?」
「…………」
「現状。戦況は芳しいとは言えません。フリーディア様にルギウス様、サキュド様にレオン殿……皆様最前線に立たれて奮戦をされているようですが、どうやらこちらは決め手に欠ける様子。誰かお一人でも斃れられれば、戦線は瓦解します」
「…………」
抑揚のない声で、イルンジュはテミスへと視線を向けたまま淡々と言葉を紡ぐ。
しかし、当のテミスは変わらず虚空へと緩んだ視線を向け続けるだけで、その身体がピクリとすら動く事は無かった。
「……。ハァ……」
そんなテミスを見て、イルンジュは小さくため息を零すと、テミスが腰掛けるベッドの脇まで静かに歩み寄って見下ろす。そこでは、まるで壊れた人形が如く脱力したテミスが、触れれば壊れてしまいそうな程に儚げな雰囲気を醸し出していた。
「これでも、私は医者なのです。生前も死後も……病や怪我に苦しむ人々を救う事を生業とした以上、こんな私にでも誇りはあります」
「…………」
「……この世界では私の知る医術など誰も認めない。それどころか、在りもしない神や呪術に縋り、救える命すらも投げ出していく」
「……」
「時には救った患者に、頭のおかしい狂人だと突き出されたこともあります。そんな世界に絶望しながらも、己が心を欺けず流浪していた私に、貴女は居場所を与えてくれた」
だが、ただ黙したまま動かぬテミスを前にしながらも、イルンジュは構う事無く言葉を紡ぎ続ける。
その静やかな瞳には、何処か炎のような光が揺らめいていて……。けれど、ただ虚空を見つめ続けるだけのテミスがそれを知る由もなかった。
「故に。感謝しています。この手で再び、苦しむ人々を救えるようにして頂けた事を。そんな貴女の事です……何かお考えがあるものだ……と。敢えて口にする事はありませんでした」
「…………」
「テミス様。貴女の心身は既に健康そのものです。受けられた傷は全て、完全に回復している。そうですね?」
「……」
それでも尚、テミスが言葉を発する事は無く、投げ出された手が動く事も無かった。
その姿を見れば、見た者誰もが口を揃えて『壊れている』と感じるほどに完璧だった。
ただ一点……力無く投げ出されたテミスの手元。その膝にかかる掛布団に、まるで握り締められたかのような皺が出来ていること以外は。
「……精神の崩壊。この世界には確かに、精神干渉系の術式やおおよそ人の心を壊してしまう類の魔法も存在します」
暫くの沈黙の後。
イルンジュはそれまでテミスの姿を捉え続けていた視線を逸らし、ゆったりとした足取りで窓際まで歩きながら再び言葉を紡ぎ始める。
「故に。私はこの世界で何度も、そのような症例の患者をも診てきました。壊れた精神とは得てしてその入り口をも晒しているもの……」
「…………」
「そう……私は救えるのですよ。自失した心をもその精神の内を覗き込み、砕け散った心の欠片を集めて……。ですが……妙なのです。テミス様……何故か貴女の心を覗く事はできない」
コツリ。と。
この部屋に入ってはじめて、イルンジュは一つ固い足音を立てると、窓を背に再びテミスへと視線を向けて言葉を続けた。
「何故でしょうね……? 壊れているはずの貴女の心が、まるで全てを拒むかのように強固な壁に守られているのは……」
「っ……」
刹那。
僅かに。ほんの僅かにだけピクリと。緩やかに開かれていたテミスの瞼が痙攣した。
それはほんの一瞬。しかも薄暗闇の中での小さな出来事で。テミスに視線を注ぎ続ける者がイルンジュで無ければ、まず間違い無く見逃していたであろう、テミス自身すら気付かぬほどに僅かな心の脈動だった。
「ハァ……。強情な方だ……それならば私にも――ッ!?」
「――イルンジュ先生ェッッッッ!!!!」
再び、深いため息を吐いたイルンジュが口を開きかけたその時だった。
閉ざされた扉の向こう側から、バタバタと騒がしい足音が響き渡ると、白衣に身を包んだ一人の男が、息を切らして病室へと飛び込んでくる。
「静かに! ここは病室です。ひとまず外へ……」
そんな男に対し、即座に身を翻したイルンジュは言葉短に窘めると、半ば強引に開いたままの扉から押し戻して、自らも病室の外へと歩み出て後ろ手に戸を閉ざした。
だが、戸を閉ざしたとはいえ、半ば錯乱状態に陥っている男の叫びは、病室の扉を貫通して響き渡る。
「避難命令ですッッ!!! 敵軍の勢いは未だ衰えずッ!! 各戦線は遅滞戦闘に移行ッ! 非戦闘員は即座に町を脱出されたしとッ!!!」
「――っ!!!」
無論。絶望に塗れた叫びは閉ざされた病室の中で腰掛けるテミスの耳にも届いており、その紅の瞳が薄闇の中で大きく見開かれた。
次の瞬間。
「わかりました。仕方がありません。貴方は病院の者たちをまとめて――ッ!!」
パリン。と。
眉を顰めたイルンジュが指示を口にしかけたその背後で、薄氷を叩き割るかのような淡い音が響き渡った。
「……? イルンジュ……様……?」
「フッ……もう問題ありません。業務に戻って結構です」
「え……? ですがっ!!」
「ッ…………。私は何故……こうも無力なのでしょうね……」
驚きに目を丸く見開く男に静かに告げた後、イルンジュは閉ざされた背後の扉へと身体を向けると、今にも泣き出しそうな程に表情を歪めて、悔し気に呟きを漏らしたのだった。




