785話 暗褐色の幻
一方その頃、ファントの町の病院……その一室では。
明りの落とされた薄暗い病室の中で、ベッドに腰を掛けたテミスがその緩んだ瞳をぼんやりと窓の外へと向けていた。
その先では、眩く輝く閃光の下で、ファントを護るべく立ち上がったフリーディア達が今も尚死闘を続けている。
「――戦いだ。こんな所で、お前は何をしているんだ?」
「…………」
そんなテミスの元へ、コツリと固い足音を響かせながら、薄暗い闇の中から湧きだすかのように、一人の男が歩み出て来る。
その姿は、テミスが良く見知ったものだった。
まるで、全ての感情が抜け落ちてしまったかのようにがらんどうで、どんよりと黒く濁った虚ろな瞳。乱雑に切り揃えられた髪は所々が跳ね、手入れの行き届いていない顎には所々髭が生えている。
厭というほどに、見知った顔だった。
さらにテミスの気分を沈ませたのは男の格好。酷く似合わない黒のスーツと、その陰鬱さを覆い隠す真っ白のトレンチコートはみすぼらしくくすんでいる。そして、仕立ての良いグレーのカッターシャツには、ひどくくたびれた真っ黒なネクタイがぶら下がっていた。その姿は、どこぞのドラマの中ですらお目にかからない程に『刑事然』としていた。
「――この世界で生きると決めたんだろう? ……見ろよ。友の危機だ。ここで行かなきゃ……漸く作り上げたお前の居場所が壊れちまう」
男は、まるで皆底から響くように酷くくぐもった声で言葉を紡ぎながら、薄闇の中をゆっくりとした歩調でテミスの方へと歩み寄ってくる。
「……随分と、喧しい幻覚だ」
「そりゃあ、口喧しくもなるさ。せっかく沢山の友もできて、こんな良い街で幸せに暮らしていけそうだってのに……どうしてそれを棄てようとする?」
「フ……友……か……」
テミスのベッドのすぐ脇。窓から差し込む白い光が届かぬ際まで歩み寄った男が静かに問いかけると、テミスは緩んだ瞳のまま静かに笑みを浮かべて呟きを漏らした。
どうやら私は、本当に頭がおかしくなってしまったらしい。
失意と絶望の底で、確かに考える事は山ほどあった。よもや積み重なったそれが、前世の自分を視てしまう程にストレスとなっていたとは。
「だからこそだよ。何をどうあがいた所で、私は異物なんだ。たとえ受け入れられたとてその事実は変わらない」
だが、友と呼んだ者たちを、自らを主として慕う者たちを見棄てるのだ……それくらいで丁度良いのだろう。
テミスは何処か投げやりな気持ちでそんな事を思いながら、自らの生み出した幻覚へ皮肉気な笑みを浮かべながら言葉を返す。
そうだ。たとえ力を封じようとも、私の意志は……思いは変わらない。だが、それはこの世界のものでは無い。
誰もが仕方ないと諦めて、雀の涙ほどの平穏と引き換えに、力ある者の暴虐を受け入れる。
これが今のこの世界の普通なのだ。誰もが賛同こそしないものの、不満を呑み込んで納得している。だが、私はそれを決して許せない。
「そう……少しばかり、この世界を良くしようとなんて思ったのが間違いだった。魔族と人間の仲を取り持ってやれば、あの自称神の女の鼻を明かしてやれるうえに、私も産まれ直したこの世界で面白おかしく暮らしていける……。クク……思い違いも甚だしい」
「……それでも良いだろう。たとえ思い違いだったとしても、お前の元にはその思いに惹かれて多くの人々が集まったんだ」
「あぁ……だから、潮時さ……。あとは連中だけでも上手くやっていける。過ぎた力を持つ私はお役御免だよ」
「だから……逃げるのか?」
「っ……」
浅いため息と共に告げたテミスに、男はただ一言、静かに問いかけた。
その穏やかながらも鋭い一言に、テミスはピクリと瞼を震わせる。
「いくら理由を盛りつけようとも無駄だ……俺には解る。お前は怖いんだ。共に居たいと願う連中と自ら向き合うのが……。人々が訳の分からない強大な力を持つお前自身を脅威と見做し、刃を向けられる可能性が」
「ハッ……流石は私の幻覚……。全てお見通しという訳か……」
「あぁ。確かにお前の周りの連中は成長したんだろうよ……色々な意味でな。だがお前は何も変わっちゃいない。自分が変わっちまうことで、他人の見る目が変わっちまう事にビビりまくってるお前の性根は何も成長していない……正体を隠してこの町を救ったあの時から何も……な……」
「……知った事か」
カチリ。と。
男はテミスに向かってそう言い切ると、懐から煙草を取り出して哀し気に紫煙を燻らせた。
そして、男は深いため息と共に胸いっぱいに吸い込んだ紫煙を吐き出すと、掛布団を固く握り締めるテミスへと背を向けて言葉を続ける。
「クク……。ま、好きにすりゃ良いさ。何をしようがお前の人生だ。ビビッて全部を放り出して逃げようと……その結果気の良い連中が皆死んじまっても……な。そら……噂をすりゃ、来たみたいだぜ?」
「なんだと……? それはどういう――」
「――テミス様」
意味深に喉を鳴らしながら言葉を残す男に向けて、テミスが声をあげかけた時。
突如として物静かな声がテミスの名を呼ぶと、同時にガラリと部屋の戸が開かれ、そこからイルンジュがゆっくりとした足取りで姿を現したのだった。




