777話 無影の剣
無影。
それは剣技を磨きし者が至る一つの境地であり、クラウスがその生涯の大半を捧げて漸く辿り着いた場所だった。
それは筋の一本に至るまでを精密に操り放つ技でも無ければ、鍛え上げた肉体が秘める圧倒的な力でも無い。
その境地とは即ち、読んで字の如く。
この世に産まれ落ちて以来、死して朽ちるまで己と共に在る存在である影。この境地へと至った者は、そんなもう一人の己とも呼ぶべき影すらも置き去りにするのだ。
「っ――!!!」
空を斬り、時を斬り、そして理を斬る。
刹那すらも存在を許されぬ須臾の中。
クラウスは己が胸に刻み込み、弟子であるフリーディアにも、幾度となく語り聞かせた理念と共に、彼女と過ごした短くも長い年月を思い返していた。
彼女はまさに、天賦の才を持っていると言っても過言では無かった。それに気付いたのは、幼き日のフリーディアに乞われて剣を教え始めてすぐの事だ。
だからこそ私は、当時の己が持つ全ての剣を彼女へと伝えたのだ。
もしかしたらこの子ならば……私が生涯を賭しても届き得なかった場所へと辿り着けるのではないか……。そんな、身勝手な願いすら込めて。
「フッ……」
だからこそだろう。
フリーディアが私の元から巣立って尚、棄てたはずの剣をもう一度この手に取ったのは。
故に。この剣こそ、かつて私がフリーディア様へ伝え損ねた己が真実の力の底。
そして同時に、フリーディアという一人の武人が、真に自らを越えて征く者であるのかを試す試金石だ。
「お別れを言っておいて良かった……」
影すら置き去りにした時間の中で、クラウスは小さく笑みを零して独りごちる。
先程。久方ぶりに剣を交わした瞬間。クラウスはフリーディアの力量のあらかたを見定めていた。
無影に至ってはいない。だが既にそれだけの力は備えている。
敵すらも慮ってしまう生来の優しさ。ただ戦いの最中、僅かに忘れるだけで良い。その優しさが彼女自身の身を滅ぼす前に。
「こんな老いぼれの冥土の土産には……過ぎたものですな……」
クラウスは静かに微笑むと、己の全てを込めた剣を振りかぶる。
そして、ギラリとその目を光らせると、フリーディアの白く、細い首筋へ向かって剣を迅らせた。
この剣は躱す事はおろか、受ける事すら出来ない無縫の剣だ。
したがってどちらが斃れるにしても、この一撃で勝負は決する。
――はずだった。
「ムッ……?」
「…………」
ヂャリィィィィンッッ!!! と。
響き渡ったのは、剣の打ち合わされる甲高い音だった。続いて、クラウスの視界に眩く舞い散る火花と、交叉する二本の剣が飛び込んできた。
「受け……止め……?」
「…………」
そのあり得ない光景に、クラウスは剣を打ち合わせた格好のまま、思わず言葉を漏らした。
確かに、剣は打ち合わされている。
だがしかし、フリーディアの視線はクラウスを捉えてはいない。
その瞳は鋭く、未だに虚空を……つい先ほどまでクラウスが立っていた場所を睨みつけていた。
……馬鹿な。
踏み込みが浅かった? それとも、絶ったつもりの私情が邪魔をした……?
クラウスの脳内を、瞬時に様々な疑問が駆け巡るが、長年鍛え上げた身体は意志から外れて二撃目の態勢へと入っていく。
「っ……!!!」
続いて狙うは脇腹。
神速の動きでクラウスは身を翻すと、初撃で守りの薄くなった胴を薙ぐべく剣を疾駆させた。
だが。
「なっ……!?」
ゴィィィンッ!! と。
再び。今度は重厚な金属音が打ち鳴らされ、クラウスの剣は突如として出現したフリーディアの剣によって弾かれ、その衝撃が二人の身体を大きく退かせた。
「…………!!!!」
二人が大きな土煙を上げ、互いに退いた後で。漸く戦いを見守る周囲の者たちの中からざわめきが漏れはじめる。
剣戟は彼等の目には映らずとも、その最中……例えば今この時のような僅かな時間に垣間見える姿を捉える事はできるのだ。
だからこそ、再び動きを止めたクラウスがただ目を丸く見開き、驚愕の表情でフリーディアを見つめる光景は、この剣戟の戦況を如実に映し出していた。
「何を……なされた……?」
長い沈黙の後。
クラウスが掠れた声でフリーディアへと問いかける。
無影の境地へと至った剣は目で見る事など適わない。仮に目で捉えたとしても、躱す暇も、受ける為に剣を動かす暇も無いのだ。
もしも仮に、そんな芸当が出来る者が居るとするのならば、その者は未来すらも見通す力を持っている事になるだろう。
「……。何をそんなに驚いて……私はただ、信じただけよ?」
辛うじてといった様相で放たれたクラウスの問いかけに、驚愕と困惑、そして僅かに恐怖までも入り混じった視線が注がれる中。
フリーディアは剣を構えたまま、小さく首を傾げて答えたのだった。




