775話 殺意という名の覚悟
その戦場には、恐ろしい程の緊張が満ち溢れていた。
剣を構えて向き合っているのは、純白の甲冑に身を包んだフリーディアと、皺一つ無い執事服に身を包んだクラウス。
剣を抜き放って以降、一言も言葉を交わさぬ二人の気迫は、間近でその光景を見守るものにさえ、有無を言わせずその口を閉ざさせるほどの緊迫感を帯びている。
「っ……。何を――」
「――止せ」
「……?」
誰もが固唾を呑んで向き合う二人を見守る中。
クラウスの背後で見守る騎士達の更に後ろから姿を現した一人の男……ブライトが、苛立ちと不満を露わにしながら声をあげかけた。
しかし、その無粋な声がこの場の静謐な空気を破壊する直前に、ブライトの傍ら飛び出したカレンが囁くように抑えた声で彼の暴挙を押し留めた。
「なんだ貴様ッ! 何故止め……むぐっ……!!」
「馬鹿ッ! 流石のアンタでも、この戦いが邪魔をしちゃいけない事くらいわかるでしょうッ!」
「ぐむっ……もがっ……!」
「声を出すなッ! いいかい。よく聞きなッ! アンタのお付きの爺サンはいま、とんでもなく深く戦いに集中してるんだ。そんな所に茶々を入れてみろ! 斬られるのはアンタだぞッ!」
「っ……!! ぶはっ……。そんな馬鹿な。クラウスが私を間違うなど……」
普段の調子で声を荒げかけるブライトの口をカレンは咄嗟に塞ぐと、必死の形相でブライトへ詰め寄り、囁き声でまくし立てた。
その甲斐もあってか、ブライトは自らの口を塞ぐカレンの手を脱してからは、その口ぶりは変わらぬものの、声を潜めて言葉を紡ぐ。
「アレを見ても同じ事が言えるのなら、どうぞ二人の間に割り込んできなよ。もうアタシは止めないからさ」
「っ……!!」
チラリ。と。
ブライトが落ち着いたのを確認した後、カレンは剣を構えて対峙する二人を示して言葉を続けると、ゴクリと生唾を呑んで自らも視線を向けて唇を噛み締める。
この状況はカレンにとって、完全に想定外の事態だった。
テミスの動けぬ間にファントを墜とす。もともとがそんな、無理を貫き通しての作戦なのだ。多少の手練れが待ち構えている事など承知の上だ。
けれど。あの時対峙したフリーディアとかいう女が、これ程までの実力を有しているなんて夢に思う事すら無かった。
「ぅっ……ぐ……っ……!!!」
その傍らで、互いに剣を手に向かい合う二人を視界に収めたブライトが、喉から微かにうめき声に似た音を零しながら、目玉が零れ落ちん程に目を見開いて後ずさる。
――クラウスは本気だ。
その凄まじい気迫を目の当たりにして初めて、ブライトはその事を確信した。
今のクラウスは、本気でフリーディアの事を斬るつもりで居る。
よもや、自らの娘同然に面倒を見、自らがその人生を懸けて編み出した剣技を伝えた弟子を、自らの手で殺すなど……。
「正気か……?」
「……?」
ガクガクと身体を震わせながら、ブライトが掠れた声でそう漏らすと、隣に立つカレンが怪訝な表情で、チラリとブライトに視線を跳ねさせる。
だが、今のブライトがそれに気付く事は無く、ブツブツと呟きを漏らしながら、その視線は目を見開いたままクラウス達の姿から離れる事は無かった。
「馬鹿な……」
あり得ない。
フリーディアは事のほか、実の親であるロンヴァルディア国王夫妻が興味を示さなかった子だと聞いている。
そんな彼女を慈しみ、実の親が如く育てたのがクラウスの筈だ。
だからこそ。彼が戦場へ共に出向くと言い出した時には、いくら化物じみた強さを秘めていようとやはり人の親か……と、ほくそ笑んだものだ。
ファントを粉砕し、クラウスの力を以てフリーディアをロンヴァルディアへと連れ戻せば、クラウスを白翼騎士団の相談役として置き、フリーディア共々手中に収める事ができる。
そんな事すら考えていたというのに。
「理解できん……何故……」
そもそも、フリーディアの行動も理解不能だ。
自らの師であるクラウスに勝てぬ事など、奴が誰よりも知っている筈なのに。
なのに何故、あのように勇ましく凛々しい顔で、クラウスの前に立っている……?
私が知る限り、フリーディアはクラウスの弟子らしく一騎当千の腕こそ持つものの、下らぬ戯れ言ばかりを口にして、自らの思うがまま放蕩に駆け回るだけの未熟者だったはずだ。
なのにいつの間に……まるでクラウスと同じ場所に立っているような顔で向き合うほどまでに成長したというのか……!?
「どうかされましたかな?」
「っ……!!!!」
「そうして睨みつけているだけでは、私は斃せませぬぞ?」
「クッ……!!」
しかし、ブライトが驚愕と衝撃に打ちひしがれている最中。
クラウスのゆったりとした声色が、硬直した空気を震わせる。その声は、周囲の者たちすら震えあがるほどの気迫を溢れさせているにもかかわらず、まるで親し気に世間話でも交わしているかのように柔らかで。
その天と地ほども乖離した雰囲気が、更に見守る者達の背筋を震え上がらせた。
「ッ……!!! セェッ!!!」
そんな刹那。
誰もがクラウスの雰囲気に意識を向けた瞬間だった。
並々ならぬ気迫の籠った咆哮を残して、フリーディアは彼等の視界から姿をくらましたのだった。




