767話 名無しの死神
「君みたいな人が、指揮官じゃなくて……」
ズズン。と。
物憂げにルギウスが呟いた背後で、コウヤの巨体が重厚な音と共に地面に倒れ伏した。
しかし、ルギウスは倒れたコウヤに一瞥たりとも視線を向ける事は無く、油断なく剣を構えたまま、コウヤの逃がした兵達が逃げ去って行った方を見つめ続けている。
――本当に、胸糞の悪い話だ。
密やかに輝く自らの剣を視界に収めながら、ルギウスは胸の内でぽつりと呟きを漏らす。
気が付けば、周囲に居たはずの兵たちの姿は無く、まるで墓標かの如く地面に突き立った巨大な戦斧の傍らに、コウヤだけが静かに横たわっている。
だが、ここは戦場。万に一つも、そんな事が起こり得る筈は無い。
「先程から……様子を窺っているのは解っている。出てきたらどうだい?」
「…………」
故に。ルギウスは確信を持って、虚空に向けて冷たく言葉を放つが、返ってきたのはただ、無数の草が擦れ合う沈黙の音だけだった。
直後。
「――っ!!!」
「ハッ……」
微かな風切り音が嘶いた瞬間。
刹那の間に身を翻したルギウスの剣と、突如として姿を現した一人の兵士が持つ奇妙な形の剣が、打ち合わされて甲高い金属音を奏でた。
だが、斬撃を受けたルギウスの剣が白銀の輝きを誇っているのに対し、まるで蛇がのたうったかのようにグネグネと歪んだ刃を持つ兵士の剣には、べったりとその刀身を覆い尽くす程の血がこびり付いている。
「大外れのゴミ野郎相手に時間かけてたクセにヤるじゃねぇの」
「……この血、君が撤退した兵達を斬ったのかい?」
「だったらどうした?」
「別に……」
ジャリィンッ……!! と。
二人は剣を合わせて互いに睨み合ったまま短く言葉を交わした後、互いに剣を振るって距離を取った。
ルギウスの眼前に姿を現した兵士の体躯は、先程受け止めた斬撃の重さからは想像もつかないほどに小柄だった。
身に纏っているのは、ぴったりとその身体を包む何処か固い印象を受ける闇色の衣。前をはだけたその外衣から覗く内衣は驚く程白く、その首元からは綺麗にまとめられた漆黒の紐が吊り下がっていた。
そして俄かには信じられない事に、その小柄な兵士の身体は慎ましいながらも所々柔らかな丸みを帯びており、それは彼女が女性であることを物語っている。
「先に言っておく。下らねぇ寝言や説教はお断りだ。この世界は弱肉強食……強い奴の為の世界だろ?」
「……少なくとも、外面を見る限りでは、君よりもそこのコウヤの方が強そうに見えるけどね。その礼服のような珍妙な格好が、戦場に向いているとは思えない」
「馬鹿野郎。絶望的にセンスねーなアンタ。コイツはスーツってんだ。真っ黒なスーツに黒いネクタイ……そこに血避けの皮手袋と剣だ。どっからどう見ても殺し屋だろうが」
「殺し屋……ね……」
ニンマリと少女が蕩けた蝋燭のような歪んだ笑みを浮かべて口上を述べるが、ルギウスは深いため息と共に一言、ぽつりと言葉を零しただけで口を噤んだ。
このスーツとやらを着込んだ少女が何者だろうと、ルギウスにとっては至極どうでも良い事だった。
如何な衣装に身を包んでいようと、如何に美しく華奢な体付きをしていようと、その外見が強さの指標になど全くならない事など、ルギウス達が一番よく知っている。
重要なのはただ一つ。
ああいった笑みを浮かべる者に、常識という言葉は一切通用しないという事だ。
「カハッ……あんまりクール気取ってると後がツラいぜ?」
「気取ってなどいないさ。僕はただ……目の前の敵を斃すだけだ」
「カッコイイ~~ッッ!! さっすが軍団長様って所だな。ルギウス? アタシの名は名無し。名無しの死神さ」
「……君の名前なんて、聞きたくなかったよ」
アナンはルギウスを挑発するように名乗りを上げると、血の滴る剣の切っ先をピタリとルギウスの眉間に向けて笑顔を向ける。
だが、ルギウスが改めてアナンに対して名乗りを上げる事は無く、ただ眉根に深い皺を寄せて言葉を返すだけだった。
「んだよ。ツれねぇな。アタシも一回、『ナノリヲアゲタケットウ』ってヤツをやってみたかったのによ」
「無理だね。自分の仲間すら手にかける君のような外道には」
「あんな雑魚共を仲間とか勘弁しろよ……。それに、敵前逃亡は死罪。常識だろ?」
相も変わらず冷たい言葉を返し続けるルギウスに、アナンはガリガリと頭を掻きながら言葉を返す。
しかし、狂ったような笑みと共にルギウスを睨み返すその瞳には、ドス黒い殺意が隠す事無く込められていた。
「……不快だよ。その笑顔は実に……癇に障るッッ!!!」
苛立ちを露わにしたルギウスが、言葉と共にアナンの懐へと飛び込み、彼女の肩口を断つように鋭くその剣を振り下ろす。
……だが。
「ハハハッ!! アタシの知った事かッ!!」
ジャリィィィィンッッ!! と。
神速の踏み込みで斬りかかったはずのルギウスの剣は、高らかに奏でられた狂笑と共に血濡れた剣によって受け止められたのだった。




