70話 無力の底で
ヒャウン。と。剣が空気を切り裂く音が広場に木霊する。
「っ! ふっ! せいっ! ……っ、ハァ……ハァッ……」
テミスは額に浮かんだ汗を拭うと、眼下に広がるヴァルミンツヘイムの街並みに目を細めた。まだ日が昇って間もないと言うのに、既にいくつかの家の煙突からは煙が上がっており、そこには平和な人々の営みが確かに紡がれていた。
「こんなに早くから精が出るな」
「……まぁ、な」
壁際からかけられた声にテミスが振り向くと、そこには酷く眠そうな顔でこちらを眺めるギルティアの姿があった。いつも思うのだが、この男は壁から生えてでも来るのだろうか?
「そういう貴公は徹夜か? 魔王が体を壊しては元も子もないぞ?」
「ククッ……貴様にそれを言われると耳が痛いな」
互いに軽口を叩きながら歩み寄り、テミスは腰に縫い留められた鞘に細剣を収める。細剣は力を失った体でも振るいやすく、ようやく体に馴染んできた気がする。
「それで? 戦えそうなのか?」
目を細めたギルティアが、テミスから視線を外してヴァルミンツヘイムの城下を眺めると問いかけた。
「……厳しいな。戦う事ができるか否かで論ずるのであれば戦えなくはない……が、今の私ではこの剣を用いてやっと、魔王軍の一般兵卒と同等か……それ以下だろう」
テミスも同じように城下へと目を落としながら、ギルティアの問いに正直に答えた。能力を奪われてただの人間の少女となった今、マグヌス達副官はおろか一般兵卒にも戦闘能力が劣る。これがテミスの現実だった。
「やはり、魔力が無いのが一番痛いな。敵の遠距離攻撃を防ぐ術がない」
魔力も無ければ力も無い。それは即ち、この世界の戦いにおいて死を意味していた。
ファントでの戦いのような市街地戦ならばともかく、ラズールのような一般的な戦場では遠距離での攻撃から口火が切られる。これはどの世界、どの時代においても言える事で、それが弓矢であったり魔法であったり、はたまた銃であったりと形を変えているだけだった。
「その口ぶりでは、お前が抱えている問題は魔力だけではなさそうだがな」
「ああ。もちろんだとも」
ギルティアの言葉に、テミスは皮肉気な笑みを浮かべて首肯する。ヴァルミンツヘイムに流れる朝の風が、長い銀髪をたなびかせてその髪はキラキラと陽光を反射していた。
「剣の術式で補ってはいるものの力は弱いし体力も人間並み。数合斬り合えば息は上がるし、屈強な者と剣を合わせれば弾き飛ばされるだろう。いっその事、本当に町娘にでもなった方が順当であるかもな」
皮肉気に、そして高らかにテミスは自分の絶望的な状況をギルティアに告げる。そこには言外に、この剣を外せという意味も込められていた。
「冗談を言うのも大概にしておけ。ならば何故、お前は今もこうして剣を振るっている?」
「与えられた任は果たす主義でな。それが解かれるまでは不本意ながら全力を尽くさねばならん」
テミスはそう答えると、眺めていた風景に背を向けて石壁へともたれ掛かる。皮肉にもその恰好は、一流の女騎士が休息しているような格好だった。
「ククク……ならば果たすと良い。私は貴様の強さを買ったのではない。その決して折れぬ心を買ったのだからな」
そう言ってギルティアは音を立ててマントを翻すと、城壁に設えられた扉へと歩を進めていく。どうやらこの男は、何があっても私という玩具を手放す気は無いらしい。
「ああ。そうだ」
テミスが呆れたため息をつくと同時に、中程まで歩みをすすめたギルティアが足を止めて振り返った。
「確かに剣勢こそ弱々しいが、その剣技は見事であったぞ」
それだけ言い残すとギルティアは今度こそ足を止めず、大欠伸をかましながら扉の中へと吸い込まれていった。
「……剣技。ね……」
ギルティアが去ってから数分後。風にその髪を弄ばせ続けていたテミスがぽつりと呟く。
そもそも、この細剣の剣技なんて私は知らない。大剣ですら力任せに振り回しているだけだと言うのに、こんな現代では骨董扱いされているような武器の剣技など知る由も無いのだ。
「フム……」
しかし、ギルティアほどの男が何かを見出したというのなら、そこには確かに何かがあるのだろう。ならば、当時収めていた武道でこの武器の形式に近いものと言えば一つしかない。
「フェンシング……か? 辞めて久しいと言うのに、体は案外覚……えて……」
テミスが腰の細剣に手を当て、独特の回転動作で抜き放つ。そして、ピタリと真半身で構えた姿勢で彫像のように動きを止めた。
「待て……待て待てっ……体は覚えている? つまり、経験は奪われていない……?」
目を見開いたテミスはブツブツと呟きながら、傍らの石畳に剣を突き立てて歩き回る。あと少し。あと少しで何かに気が付きそうなのだが……。
「ふぁ~あ……」
その瞬間。テミスの視界の端を大荷物を抱えた鍛冶屋のゴブリンが、欠伸と共に通りがかる。その眠そうな表情からして、恐らくはこれから仕事なのだろう。しかし、テミスにはそんな事はどうでもよかった。
「そうかッ!!!」
天啓を得たとばかりに駆け出したテミスの目は、世界を照らし始めた陽光のように爛々と光を放っていた。
10/25 誤字修正しました




