751話 静やかな平穏
ブライトたちがロンヴァルディアへ戻ってから数日後。
一部の者たちが慌ただしく動き回る中、ファントの町には変わらぬ平穏な時間が流れ続けていた。
しかし、その水面下では。
事態は確かに、来る戦いに向けて進んでいっていた。
そんなある日。
「……本気なのかい?」
「えぇ……。これが……最後かもしれないから……」
ファントの町の片隅。
彼の町が誇る一棟の大きな建物の屋上で、町を見下ろしながら二人の人影が静かに言葉を交わしていた。
そのうちの一人……フリーディアは、陽光を受けて美しく輝く黄金色の髪を風になびかせて、物憂げな表情を浮かべている。
そんな彼女の傍らでは、思慮深げに微笑むルギウスが、困り果てたかのように自らのウェーブがかった黒髪を掻きあげてため息を吐く。
「……確かに。状況は最悪に近い。恐らく……戦いは避けられないだろう。けれど、そんな気持ちで戦いに挑めば、勝てるものも勝てなくなってしまう」
「いいえ。私だって、負けるつもりなんて毛頭無いわ……。でも……最後の瞬間に迷いが残る……そんな悔いは残したくないの」
「っ……!!! 君は……」
まるで、森の奥深くに広がる凪いだ湖のように。揺れる事無く、静かに言葉を紡ぐフリーディアに、ルギウスは驚きに目を見開き、息を呑んで彼女の姿を見つめた。
その姿は今にも割れ砕けてしまいそうな程に儚げで、同時にそのような覚悟を持ちながらも静けさを保つフリーディアから放たれる気配に、ルギウスはただただ圧倒される事しかできなかった。
「準備が……整いました」
「っ……!! イルンジュさん……相変わらず気配を消すのが上手いのね。ありがとう」
突如。二人の背後から静かな声が響くと、フリーディアはビクリと肩を跳ねさせて振り向いた後、苦笑いとも照れ笑いともつかない笑みを浮かべ、イルンジュの傍らを駆け抜けてく。
そしてただ一人残されたルギウスの背に、イルンジュは変わらぬ声色で問いかけた。
「…………ご一緒しなくても、よろしいのですか……?」
「うん……。今は……二人にしてあげた方が良いと思ってね」
「然様ですか……。ですが、私の目には……些か寂し気に見えるのですが……」
「ふふ……そうかもね」
流れる風に身を任せながら、ルギウスは柔らかく言葉を返すと、その視線をぼんやりと眼下の町へと向けた。
ルギウスはテミスの現状を正しく理解している。緊急の連絡との事で呼ばれて急ぎ駆け付け、まるで抜け殻のような彼女の姿を見せられた時には、正直その場でへたり込んでしまいそうになるほどの衝撃を受けたものだ。
けれど同時に。ルギウスの心の中には、遂にこの時が来たか……という、悔しくて悲しくて苦々しい、諦観にも似た暗雲のような感情が揺蕩っていた。
「まさかこんな事になっているなんて……。僕がもう少し早く、気が付く事ができれば……」
「…………」
誰ともなしに呟かれたルギウスの独白に、イルンジュはただ沈黙を以ってこれに応じる。
そして生まれた沈黙に、ルギウスはクスリと口角を上げると、建物の真下を見下ろして言葉を続ける。
「……もう少し、マシな手が打てたんだけどね……」
そこでは丁度、外套を深々と被り、まるで簀巻きのように全身を包まれたテミスを乗せた車椅子を、同じく一目を憚り外套を目深に被ったフリーディアが押して、病院の建物から出てきたところだった。
病院の戸を閉め、フリーディアは周りを窺うように見渡した後、町の方へと向けて車椅子を押して歩いていく。
その背中を、ルギウスはただ柔らかな表情で見送っていた。
「ねぇ……どう? 暖かで……笑顔が溢れているでしょう?」
「…………」
それからしばらくの間。病院を出たフリーディアは、自らの前で俯いたまま、大人しく腰を掛けているテミスに声をかけながら、ファントの町を当てもなく歩き回っていた。
無論。ガタガタと音を立てて石畳を進む車椅子が人の目を惹かない訳が無く、道行く人々は物珍しそうに彼女たちの姿を視線で追っている。
だがそれでも、外套に身を包んだ二人に声をかける者は居らず、人々はただその姿を遠巻きに眺めたり、時には眉を顰めてヒソヒソと言葉を交わすだけだった。
「でも……私には足りない。貴女が足りない。……強欲よね。こんなに素敵な光景が目の前にあるのに」
「…………」
「いつまでも私に投げっぱなしじゃ駄目よ? 早く……シャッキリしてくれないと……」
「…………」
そんな人々の中を歩みながらも、フリーディアは小さな声で物言わぬテミスへと語り掛け続けた。
こんな事は、ただの思い付きの自己満足だ。
車椅子を押して言葉を紡ぎながら、フリーディアは胸の中でひとりごちる。
もしも私たちが守り切る事ができなかったら。テミスは二度と、この幸せな光景を見る事はできないだろう。
ならば……せめてもう一度だけ。たとえこの素晴らしい光景がその瞳に映っていなかったのだとしても、フリーディアはこれまでテミスが護り抜いてきたこの景色を、一通り彼女に見せたかったのだ。
「フリーディア様……」
「…………」
「――っ!!! カルヴァス……? それに……リックッ……!?」
そんな二人の前に、二人の人影が立ちはだかると、フリーディアは息を呑んでその場に立ち止まった。
非常にまずい。今回の事はフリーディアの独断なのだ。事情を明かしたルギウスこそ黙認してくれたが、これまで事情を伏せ続けていた彼等に、テミスの現状が漏れてしまうのは何としてでも避けなければならない。
何と言って説き伏せる? それとも……いっその事逃げる? 冷や汗が滝のように背を流れ、暴走した思考が目まぐるしく無茶苦茶な打開案を弾き出す。
だが……。
「何も……仰らないでください。ただ、貴女の御心のままに」
「心配しないでください。俺達が……護ってますから」
カルヴァスとミュルクはゆっくりと真正面から歩み寄ると、フリーディア達とすれ違う刹那。その耳元で、小さな呟きを残して歩み去っていく。
「っ……!!! あり……がとう……!!!」
「…………」
ぎしり……と。
フリーディアは車椅子の持ち手を固く握り締めて、ふり返る事無く去っていく二人に背を向けたまま涙声で呟いた後、小さく鼻を鳴らして再びゆっくりと歩みはじめたのだった。




