735話 策謀と来訪者
「失礼致します。ブライト様、落ち着かれましたかな?」
ブライトの執務室を静かに辞したクラウスが再び姿を現したのは、それから数時間後の事だった。
その頃には、豪奢な執務室は荒れ果て、辺りに破壊された家具の破片が散らばっているものの、静かに机へと向かうブライトの傍らには、整然と並べられた書類の山脈がそびえ立っていた。
「あぁ。すまない、クラウス。世話をかける。後で構わないから片付けを頼む」
「ハッ……。して、問題の方は如何されましたか?」
「万事問題無い……とは言えないな。今回の戦いで喪った兵や装備が多過ぎる。こればかりはどうしようもない。致命傷だ。戦いに勝っていたのならばどうにでもなっていたのだがな……」
バサリ。と。
ブライトは手元に残っていた分厚い紙束を放り投げると、深いため息を吐いて、ゆっくりと歩み寄ってくるクラウスへ視線を向けて答えた。
「では、その他の問題は……」
「あぁ。だいたい目途が付いた。王室の要望に対する費用の捻出は税で賄えるし、町の治安維持に充てる費用は件の指揮官の家を廃すれば事足りた」
「ホッホ……随分と溜め込んでいたようですな?」
「フッ……全くだ。どいつもこいつも、身勝手に自分の事を考えるだけで、我がロンヴァルディアの事などどうでも良いらしい」
クラウスと言葉を交わしながら、ブライトは手に持っていた豪奢な羽ペンを机の上に放り棄てると、どこか陰のある皮肉気な笑みを浮かべて吐き捨てる。
事実。
現在のロンヴァルディアが辛うじて国として機能しているのは、このブライトの功績によるところが大きかった。
各貴族や領地を与えられた冒険者将校は、己の家や領地を肥やす事しか考えず、それを御する役目を担うはずの王室は享楽に溺れ、今やその機能を果たしてはいない。
故に。ロンヴァルディアの内政は事実上、王室の指揮の元で働くはずの内政議会が取り仕切っており、その頂点であると同時に王族の家系でもあるブライトが、ロンヴァルディアの財政を取り仕切っている。
「力は人を狂わせる……多くの者が求めて止まぬ財もまた、大きな力に間違いはありませんからな」
「フン……だからこそ、然るべき者が統率し、管理せねばならん。だというのに……」
ブライトは込み上げる苛立ちと共に、脇へ避けた書類を一瞥すると、その瞳に冷たい光を宿して鼻を鳴らす。
そこに積み上げられた書類は全て、軍部からブライトの責任を問う諮問書であり、中にはそれを理由に予算の権限の大半を軍部に回すよう取り計らえなどという、強請りのような事が記されたものもあった。
「下らん。回された戦費を摘まんで私腹を肥やす下郎を相手にする暇など無い。今は兎も角、大量に発生した新兵教育と装備拡充の予算の対策を練らねばならん」
「……その件で一つ。お耳に入れたい事がございまして」
「何……?」
クラウスはブライトに深々と頭を下げて言葉を紡ぐと、言葉を発する事無く身体でブライトを扉へと促し、その数歩後ろに付き従う形で歩き始める。
同時に、クラウスはその顔に柔らかな微笑みを浮かべると、先を浮くブライトに向けて言葉を続けた。
「応接室にお客様です。お客様……とはいっても、本来ならばブライト様への謁見など到底叶わぬ者達ですが」
「ホゥ……?」
つらつらと並べられるその言葉に、ブライトは僅かに口角を吊り上げて微笑み、息を漏らして相槌をうつ。
この場合、クラウスの言う『お客様』とは即ち、招かざる客を意味していた。
そしてそのお客様を、クラウスがブライトに取り次いだという事は、招かざる客が極めて重要な情報を持っているか、もしくは招かざる客自身が重要な人物であると判断されたという事だ。
「何者だ?」
「ハッ……カレンと名乗る赤毛の少女と連れの子供が一人。王城に侵入しようとしている所を発見して捕らえたのですが、曰くあのファントの情報を持っていると」
「ファント……だとッ!? 何故私がそんな連中と面を会わせねばならんのだッ!!」
クラウスの口から発せられたその忌まわしき名に、ブライトは思わず立ち止まって振り返ると言葉を荒げる。
ブライトにとって、ファントとはその名すら耳にしたくない程の嫌悪の対象であり、叶うのならばその存在を地上から消し去ってしまいたいほどの憎しみの地だ。
「……お気持ちはお察しします。ですが、連中はどうやら軍部にこの情報を対価に交渉を持ち掛けに来た様子。ならば、彼等よりも先んずる事ができればあるいは……」
「チッ……。だがまぁ……解った。クラウス、お前の企みに乗ろう」
「ハッ……恐れ入ります」
足を止めたブライトに対し、クラウスはごく静かな声で言葉を紡ぐ。
すると、短い沈黙の後。ブライトは顔を顰めて頷き、再び悠然とした態度で歩き始める。
それに対し、クラウスは恭しく頭を下げた後、その数歩後ろを音も無く付き従ったのだった。




