734話 愚者の苦悩
ロンヴァルディア。
人間達にとって、悪しき存在である魔族たちと戦う最前線の国。
故に。ロンヴァルディアは後方に領地を持つ国々から、支援金という名目で魔族と戦う為の資金を得ていた。
しかしその実。支援金とはただ聞こえが良いだけの虚像に過ぎない。支援金を渡す国の意図など、いかに策謀に疎いものであったとしても理解できるだろう。
その包まれた意図を解き明かすのならば、金をやるから、お前の国はその身を以って魔王軍と戦い、我々の領地の平和を護れ。と、訳すのが適当だといえる。
要するに、魔族との戦いなど誰もしたくは無いのだ。だからこそ、ロンヴァルディアはただ領地が隣接していたというだけの不幸な理由で、終わりの見えない戦を強いられている。
「クソッ!! クソッ……!! クソォッッ!!! どいつもこいつもッ……好き勝手に身勝手な事ばかりッ……!!!」
ズドン。と。
見るからに高級である事がわかる程に、豪奢な飾りつけが施された執務机へ、怒りの咆哮と共に書類を握りつぶした拳が荒々しく叩きつけられる。
室内には、これまた豪奢な家具類が並んでおり、この場所の主の地位が、相当に高いものであると物語っていた。
「……ブライト様。どうか悋気をお鎮めになって下さい」
「黙れクラウスッ!! 貴様に私の苦悩の何が分かるッ!!!」
「無論。私ごときにはブライト様の御心の内の苦慮を理解する事は出来ませぬでしょう。ですが……ブライト様は我が主。主が苦しみ取り乱す姿をただ眺めている事など、私にはできません」
「っ……!!」
静かな言葉と共に、荒れ狂うブライトの前に一人の老人が進み出て言葉を紡ぐ。
すると、顔を紅潮させ怒りに呑まれていたブライトが即座に押し黙り、ぎしぎしと歯を食いしばって怒りを呑み込んだ。
それは明らかに、地位や立場こそブライトの方が勝っているが、この場における力の序列においては、このクラウスという名の老人の方が格上であることを示している。
「ホッホッ……。お判りいただけたようで何よりです。そうでなくては、この老骨が出向いた甲斐が無いというもの」
「ッ……何が老骨だ……」
「何か……申しましたかな……?」
「な……何でもないッ!!!」
ブライトがひとまず矛を収めたのを確認したクラウスが朗らかに笑うと、ブライトは忌々し気にボソリと言葉を漏らした。
しかし、即座にそれを聞き逃す事無くクラウスが怪し気に目を光らせると、ブライトは肝をつぶして握り潰した書類を開く。
全く……何だというのだッ!!
皺だらけになった書類を伸ばしながら、ブライトは呑み込んだ怒りで胸の内を焦がしていた。
あの、ファントとかいう生意気な町を訪問してから、まるで呪われでもしたかのように悪い事ばかりが続いている。
この国の内政を司る内政議会議長の座は辛うじて守れたものの、代わりにお目付け役として王家からこの目障りで口喧しい執事を付けられてしまった。
それに加えて、魔族との戦争が長引くにつれて軍部は発言権を増すし、それに準するようにして、周囲の王族や貴族の身勝手な文句は増え続けている。
「いったい私がッ!! 何をしたというのだッッ!!!」
「…………」
遂には堪りかね、ブライトは皺を伸ばしていた書類を机に叩き付けると、漏れ出た怒りを怒号に乗せて吐き出した。
そうだ。私は悪い事など何一つしていないし、間違った事など何一つ言っていない。
だというのに、気付けば全ての後始末と責任は私に擦り付けられ、目の前には苦労だけが積み上がっていた。
「ブライト様。過去の事を嘆いた所で、現在の状況は好転しませぬ」
「何を他人事のようにッ!! 元はといえばクラウスッ!! お前があのフリーディアをしっかりと教育しないからこのような事になったのだぞッ!!!」
「……。フリーディア様……ですか……」
柔らかく告げられたクラウスの言葉に、ブライトは胸の中で煮滾る怒りの一部を叩きつけた。
すると、クラウスは何故か目尻を緩めて小さく微笑むと、まるで懐かしむようにその名を口にする。
その姿がまるで、今でも自らの主はフリーディアだとでも告げている様で。ブライトの胸の内に滾る言葉にできない感情を、苛立ちの炎が包み込んだ。
「そうだ。私がこんな苦労を背負い込んでいるのも、あの頭の狂った忌々しい小娘共の所為だ。即ちクラウス、お前の責任でもある」
「ホホ……あの方は真っ直ぐな信念を持つ聡明な方でいらっしゃる故。ご自分の進むべき道を見付けられたのでしょうな」
「ほざけッ!! 下らん騎士の真似事の次は、王女の身でありながら自らの国を裏切るだと……? 政争の道具風情が言語道断だッ!!」
「…………。フゥ……フリーディア様が見限られるのも無理はありませんな……」
再び気炎を上げたブライトが、テミスやフリーディアの悪態を垂れ流すのを聞き流しながら、クラウスは密かにため息を吐いて呟きを漏らす。
フリーディアが一人前になるまで、教育係を務めたのは他でもないクラウスだった。老齢に至って天涯孤独の身であるクラウスにとって、フリーディアはまさに孫のような存在だった。
だからこそ、クラウスは白翼騎士団の勇名を耳にする度に我が事のように喜んで祝杯を挙げ、心の底からその活躍を誇りに思っている。
今回の一件であっても、クラウス個人としてはフリーディアの判断は正しいと感じていた。
しかし、クラウスはフリーディアの父であるハインドルフ王に永く仕えた身、若かりし頃は共にロンヴァルディアの未来を語り、希望に想いを馳せた事もあった。
「……。フリーディア様。例え朽ちて果てる定めなのだとしても、この老骨には今更この国を棄てる事などできませぬ。道が分かたれたというのならば、せめて……」
怒りのままに止まらぬ罵詈雑言を吐き出すブライトに背を向けると、クラウスは呟きながら目を細めて宙を仰ぎ見た後、静かに部屋を後にしたのだった。




