732話 虚ろの帰還
「フ……フリーディア殿ッ!!! テミス様が……テミス様が、目を覚まされ……ました……」
その報せがフリーディアの元へと届いたのは、今回の騒動が起こってからちょうど七日後の事だった。
しかし、紛れもない吉報であるはずのその報せを持って、慌ただしく駆け込んで来たマグヌスの顔はとても暗く、その表情からは困惑をも見て取れた。
「っ……。何が……あったの? 詳しく教えて頂戴」
ぞわり……。と。
フリーディアは、自らの胸の奥の方から湧き出る嫌な予感に蓋をすると、手に持っていた書類の束を傍らに置き、努めて冷静な声を心がけて口を開いた。
ファントの町を狙った今回の騒動は、捕らえた者達を隔離して尋問することで、驚く程早い解決を見せていた。
そこには無論、疑いの目を向けられながらも、終始この一件に協力的だったマリアンヌの功績も多く、フリーディアはその事実を、今度こそあの意地っ張りなテミスに突き付ける為、その全てをつづった膨大な報告書も用意していたのだ。
あとは、テミスが目を覚ますのを待つだけ。
事態は今日ここに至るまで、良く均された平坦な道を歩むが如く、極めて順調に推移していた。
「はい……目を……覚まされた……のですが……」
「……?」
フリーディアの問いかけに、マグヌスは暫くの間逡巡を見せると、彼にしては珍しい程に歯切れ悪く語り始めた。
「果たしてあの方は……本当に……テミス様……なのでしょうか……?」
「はっ……?」
「お……おかしなことを言っているのは、私とて理解しておりますッ!! あの方は恐らく……確かにテミス様なのでしょうッ!! それでも……それでも私はッ……!!」
「……ごめんなさい。貴方が何を言いたいのか良く解らないわ? とにかく、テミスは目を覚ましたのよね?」
「は、はい……」
しかし、マグヌスの報告する内容は一向に要領を得ず、そこから得られる確たる情報は無いに等しかった。
だが、マグヌス自身も自覚しているようだが、そこに少なくない葛藤があった事は厭というほどに伝わってくる。
「わかった。なら、これからテミスの所へ行くわ。どちらにしても、報告しないといけない事が山ほどあるから。マグヌス……往復させて悪いけれど貴方も付いてきて頂戴」
「はい。ご一緒するのは勿論……。ですがどうか……気を強く持たれて下さい」
「……? えぇ」
再三警戒を促すマグヌスの言葉に不安を覚えながら、フリーディアは手早く準備を済ませると、手塩にかけて作り上げた書類を小脇に抱えて、テミスが傷を癒している病院へと足を向けたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
病院に到着したフリーディア達が案内された病室は、奇しくも以前、深手を負ったフリーディアが担ぎ込まれた病室だった。
しかし、そんな事すら頭の中から吹き飛んでしまう程の現実が、今のフリーディアの前には広がっている。
「っ……!!!!」
声が出ない。
全身を寒気に似た怖気が這いあがり、荒れ狂う感情がその光景を否定していた。
案内された病室の中に居たのは、ただの一人の少女だった。
ほんのりと赤く色付いた美しい長い白銀の髪を、開かれた窓からそよぐ風になびかせながら、少女はベッドの上で状態を起こし、ただぼんやりと呆けている。
この瞬間。フリーディアは漸く、真の意味でマグヌスの言葉を理解した。
――この少女は、本当にテミスなのか……?
確かに、外見的特徴は一致している。
膝の上に掛けられた掛布団から覗く白い腕に巻かれた包帯は、確かにあの時テミスが傷を受けた位置と寸分違わない。
だが、目の前の少女をテミスと呼ぶには、決定的な何かが欠落していた。
「うそ……」
少女の目を覗き込んだ瞬間。フリーディアは自らの手から、珠玉の作品である報告書が音を立てて落ちるのにも構わず、フラフラと危うい足取りで後ずさりした。
目の前の少女の瞳はただ虚空を見つめるばかりで、そこには何も映っていなかった。
「お気を……確かに……。目を覚ましてからずっと、あの調子なのです。我々がいくら呼びかけても何の反応も示さず……クッ……」
「…………」
どすり。と。
フリーディアは、自らの後ろに控えていたマグヌスにぶつかってようやく、思考をする程度の余裕が生まれる。
そうだ。この少女がテミスでないなんて事はあり得ない。
テミスは確かに、性格は傲岸不遜でやる事は滅茶苦茶だけれど、そこには確たる芯がある。
それに加えて、テミスがこの町の平和を作り、守り抜いてきたことに間違いはない。
なら、テミスを偽物にすり替えるなんて事をしても、この町の人々にとって何の得も無い。
「……マグヌスさん。すぐにイルンジュ先生に確認を」
「確認……ですか? ですがこの方は――」
「――テミスに使った術式と薬の詳細とその説明……いえ、イルンジュ先生をすぐにここへ呼んできてください」
長い沈黙の後。フリーディアは僅かに震える声でマグヌスにそう告げた後、音高くカツリと振り返って言葉を重ねる。
その瞳には、気高い希望の光が、煌々と灯っていたのだった。




