729話 崩れゆく心
「ぅ……あ……ぁ……」
ぷつり。と。
突入部隊の士気をしていた筈のフリーディアが自らの目の前に姿を現した瞬間。テミスは自らの中で、何かが音を立てて千切れたのを感じた。
もう。駄目だ……。
「ッ……!? テミス……様……!?」
突如として黙り込み、大人しくなったテミスを慮ったマグヌスが声をあげるが、テミスの耳には一切入らない。
今のテミスには、ただただ無限の絶望が目の前に広がるだけだった。
――そうだ。コイツならば、きっと大丈夫だと。
例え他の兵士たちすべてが幻惑に呑み込まれたとしても……。何度も私と刃を合わせ、時には肩を並べ戦ったフリーディアならばきっと……。
心のどこかで、そう思っていたんだ。
けれど、現実はそんなに都合の良いものでは無い。
正真正銘、普通の人間であるフリーディアはこうして幻惑に呑まれ、私に代わる指揮官として任せられた前線を放棄して私の元までやって来た。
私の願える奇跡など無い。
私が縋れる希望など無い。
そんな事は、とうの昔にわかっていた筈なのに。
「くぅっ……!!! ひぐっ……あぁ……っっ……!!」
「ちょ――!? テミスッッ!?!? どうしたの? 痛いの!? 苦しいのッ!?」
濁流の如く押し寄せる絶望に呑まれたテミスは、遂に固く閉ざしていた喉を開いて泣き声を漏らした。
まるで、子供のように泣きじゃくるテミスを見たフリーディアが色を失って駆け寄り、叫ぶようにして問いかけるが、テミスはただただ声を押し殺して涙を流すだけで、その問いに答える事は無かった。
そんな事など歯牙にもかけず、テミスの心はゆっくりと、溝泥のような冷たい闇の中へと沈んでいく。
――何処まで行こうと、いくら足掻きもがこうとも私は一人だ。
そんな事……わかっていた筈じゃないか。
いくら部下に慕われても、いくら信頼の置ける友ができたとしても、この世界の異物たる私が、この世界の者である皆の中に、混じれるはずが無い。
この身体が。命が。呪われているようなものなのだ。
忌々しい女神が寄越した能力を封じても、この身が持つ常人離れした頑強さと、魔族すら凌駕するであろう魔力量が消える訳ではない。
それに加えて、この世界に在るべきではない異世界の知識。
私という存在は、あくまでもこの世界に打ち込まれた正義と云う名の楔。
この世界を管理・統制しようと目論む女神を自称する者が送り込んだ、尖兵に過ぎないのだ。
「っ……」
「ちょっとッッ!!? いったいどうしたのよッ!? 何でこんな状態にッ!!?」
「わ……わかりません……。何やら、私には解せぬ敵を視られていたようですが……」
脱力したテミスの目から徐々に光が失われ、泣き声すらあげる事無く、ただ涙をボロボロと流すだけになった頃。
その異様さに狼狽えたフリーディアがマグヌスを問い詰める。
しかし、ぴったりと傍らに付き添っていたマグヌスでさえ、周囲に以上を感じる事はできず、困ったように眉を顰めて答えるしか無かった。
「敵ッ――ですって……!?」
だが、その言葉に過敏に反応したフリーディアが、即座に腰に提げた剣の柄へと手を閃かせて周囲の気配を探るが、いくら注意深く意識を集中しても、周囲に敵の姿や気配を感じる事はできなかった。
「マグヌスさん。テミスは他に何か言っていなかった? 敵だけじゃなくて……」
「っ……!! 確か、敵の攻撃を受けている……と。あと……気付いているのは我々しかいない……?」
「私達が攻撃を……? まさか。敵は素人が五人だ……け……っ!!」
瞬間。
フリーディアの脳裏に嫌な予感が閃き、背筋が俄かに粟立つ。
この場所は、テミスに重症を負わせたあの襲撃者の仲間が知らせたものだ。だというのに、この場に待ち受けていたのは戦う術すらロクに知らない者たちだけ。
まさか……これ全てが本当に幻覚ッ……!?
そう察したフリーディアは瞬時に手を番えていた剣を引き抜くと、自らの左腕へと躊躇なく突き立てた。
「フリーディア殿ッ!?」
「ぐ……痛ぅッ……小屋はッ!? っ……」
マグヌスが驚く声をも無視して、フリーディアは自傷の痛みを堪えながら後ろを振り返った。
しかしそこには、これまでとは寸分たりとも変わらぬ光景が広がっており、自らの認知が正常であると物語っていた。
「なんで……? っ……!! しまったっ……! 御免! テミスッ!!!」
自らの感覚が正常だと理解したフリーディアはその刹那。何かを察したかのようにビクリと肩を跳ねさせて叫びをあげる。
「何かわかっ……ッッ!!? フリーディア殿何をッ――!!!」
同時に、傍らのマグヌスが止める間も無く、フリーディアは抜き放った剣を閃かせると、固く握り締めたその柄頭を、ぐったりと首を垂れるテミスの後頭部へと叩き込んだのだった。




