66話 喪失と虚構
「――っ! ……ここは?」
目を覚ました時。まず真っ先に目に入ったのは黒く塗られた天井だった。つやつやと光沢を放つそれは、素人目にも高級な石材を使っているとわかるし、そんな建材が使われているという事は、ここは前線ではないのだろう。
「てっきりやられたものだと思ったが……」
病衣のような簡素な服をわずかにはだけ、貫かれたはずの胸元を確認する。しかしそこには傷痕一つ無く、最早見慣れた外見相応のつややかな肌があるだけだった。
「っ……と。少し体が重いくらいか……珍しくあの嫌な夢も見なかったし、気分は悪くないがな」
テミスはそうひとりごちりながら体の調子を確認すると、寝かされていた豪奢なベッドから降りて部屋の中を見回す。相も変わらず調度品一つとっても豪華極まりないが、そんな部屋の片隅に部屋の空気から完全に乖離しているテミスの武具一式がまとめてあった。
「鎧にも傷は無し……という事はあれは、意識を刈り取る魔術か何かか?」
テミスは病衣のまま自らの甲冑に歩み寄ると、状態を確認しながら思考を巡らせた。仮に、ブラックアダマンタイトの魔導防御をも貫通する程の昏睡術式だとしたら相当厄介だ。
「まあ良い。体も問題無さそうだし武具も無事。ならば、さっさと戦場に戻らん訳に――っ!?」
ぐらり。と。軽く、鈍った体でもほぐすかと、立てかけられていた大剣に手をかけた時だった。
「重っ――!? うわっ! ぐぎっ……わわわわわっ!!!」
普段であれば、羽のように振り回せるはずの愛剣は鉛のように重く、そのまま持ち上げられなかった反動でバランスを崩してテミスの上へと倒れ掛かってきた。
「ぐっ……ぎぎぎ……何なんだ一体……?」
ガシャーン! というけたたましい音と共に、大剣の下敷きになったテミスが這う這うの体でその下から這い出てくる。偶然刃がこちらを向かなかったから助かったが、下手をすればそのまま叩き切られて間違いなく死んでいた。
「テミス様ッ!!! ――お目覚めに……って、いかがされたのですか?」
音を聞きつけたのか、部屋の扉が弾けるように開いてマグヌス達が顔を出す。喜びに満ち溢れていたその顔は、部屋の中の惨状を目の当たりにして不思議そうなものへと変化した。
「ああ。すまないなマグヌス。不覚を取った。……ところで、すまないが少し手を貸してくれ」
「はっ……手ですか? ええ、構いませんが……どうぞ」
未だに愛剣と床に片足を挟まれたままのテミスが、入り口に立つマグヌスを振り返って応えると、相も変わらず首を傾げたマグヌスが歩み寄って来て片手を差し伸べて来た。
「いや。違くて。コイツを退けてくれと言ってるんだ。何故だかわからんが重くてかなわん」
「っ!? テミス様ッ……今……なんと?」
テミスが、歩み寄ってきたマグヌスの腕を軽く叩きながら大剣を指差すと、まるで落雷にでも打たれたかのようにマグヌスが硬直し、震える声で問いかけてくる。
「だから、私の剣が重いと言ってるんだ。別段、体の調子は悪くなかったと思うんだがな……って、どうした?」
剣に足を挟まれたまま、テミスはわなわなと震え始めたマグヌスを見上げる。無様を晒しているのは承知しているが、何もそこまで怒らんでもいいだろうに……。
「っ……失礼しました。まずは、こちらへ……」
「……? ああ。すまんな」
てっきり、無茶をするなだとかそう言った類の小言でも飛んでくるかと思ったが、何故か俯いたマグヌスは軽々と剣を元の位置へと戻すと、立ち上がりかけた私をそのまま抱き上げて、寝かされていたベッドの上に押し戻される。
「で? 戦況は? あれからどうなった?」
この際ひとまず自分の事は置いておこう。現状苦痛もないし、放っておいても問題ないだろう。そう判断したテミスは、ベッドの上で乱れた病衣を正しながらマグヌスに問いかけた。
「現在。第三・第五軍団が戦線を維持しています。我ら以外の十三軍団の者は第五軍団に指揮権を預け、テミス様を回復させるためヴァルミンツヘイムまで帰投しました」
「なるほど……ご苦労」
テミスはマグヌスの報告を聞くと、頭の中で状況を整理しながら頷いて返す。ここがヴァルミンツヘイムならばこの内装も納得だ。同時に、あの戦場で私が倒れてから数日は経っているという事になる。
「ならば……一刻も早く戻らねばな。マグヌス。出立の準備を」
「っ……」
「……? どうした?」
頭の中で結論を出すと、テミスは勢いをつけてベッドから立ち上がる。しかし、マグヌス達がそれに応じる事は無く、飛び込んできてから沈黙を保っていたサキュドが呆れ顔で口を開いた。
「テミス様、アンタ今自分がどんな状態か分かってるの?」
「む? ああ、体の事なら問題はない。数日寝ていたせいかいささか鈍っているようだが、心配をするような事では――」
「ほれ」
壁際のサキュドに歩み寄りながら答えると、不意にサキュドは脇の甲冑からサークレットを取り上げて放って寄こした。にやりと意地の悪い笑みを浮かべているようだが、別段この程度反応できない訳が――。
「――っ!? ぐぅっ!?」
しかし、軽々と放られたサークレットをキャッチした瞬間。その凄まじい重さを支えきれず、轟音と共に今度はサークレットにその手を床へと縫い留められる。
「ブラックアダマンタイトは本来、凄まじく重たい金属なのよ。その性質のお陰で忘れられてるけどね」
サキュドはそう話しながら、腰を折り曲げ、地面に手を付いた格好のテミスの前に立つと、文鎮のようにテミスの手を床へと縫い留めていたサークレットを軽々と拾い上げる。
「そして、その性質は精神感応。そう聞いてるわよね?」
「あ……ああ……」
テミスは、サークレットに挟まれたことで痛み始めた手首をさすりながら体を起こすと、元の位置へ戻っていくサキュドの背を見ながら頷いた。
「でもね、それは少し違うわ。結果として精神感応が起こっているだけで、ブラックアダマンタイトは、なにもヒトの意思を読み取っている訳じゃない」
「……つまり、こちら側の何らかのアクションを読み取って自重を変化させているという事か?」
「えぇ。手にした者の魔力に反応してね」
「っ!!」
カチャリ。という軽い音と共にサークレットが元の場所へと戻される。同時に、サキュドの口から告げられた言葉は、彼女が予想している以上にテミスにとっては衝撃だった。
「――まさかっ! 錬成――ブロードソード!」
目を見開いたままテミスはその場にしゃがみこむと、石畳に手を当てて能力を発動する。
「っ……!!」
しかし、叫んだ声が部屋に響いただけで、ゆっくりと引き上げた手の中に幅広の剣が現れる事は無かった。
「……なるほど。やってくれたっ……」
ぎしり。と。歯を食いしばったテミスが、持ち上げた手を床へと叩き付ける。しかし皮肉にも以前のような強い音は鳴り響かず、ゴキリという嫌な音が体を伝っただけだった。
「テミス様……」
背後で頭を垂れていたマグヌスの気配が、気遣わし気な声と共に歩み寄ってくる。しかし、事実を理解したテミスにはマグヌスを気にかけている余裕は無かった。
「なるほど……なるほど。そういう事か」
ズキズキと痛む手を庇いながら、脱力して後ろへと身を投げ出したテミスの声が部屋に響いた。私は魔力を失ったのではない。恐らくは、あの女神とやらに付与された力そのものを失ったのだ。
故に、魔力に感応するブラックアダマンタイトは言う事を聞かず、膂力も人間の少女と同等にまで落ち込んでいる。そして、錬成能力が使えないという事は、戦いで使用してきた技の数々も再現することはできないだろう。
「………………」
静寂に包まれた部屋の中で、病衣のまま床へ寝転がり目を瞑ったテミスを、二人の副官が痛々しげな眼で見つめていた。
2020/11/23 誤字修正しました




