715話 無邪気な狂気
――命が……流れていく。
抉り、削ぎ切られた腕。
戦友の腕から止めど無く溢れ出る血を視界の片隅に収めながら、フリーディアは今にも崩れ落ちてしまいそうなほどの無力感に苛まれていた。
テミス自身は気丈に振舞っているが、あれ程の出血では、彼女の超人的な体力を以てしても、五分が限界だろう。
それでも私には、今テミスに剣を下せと言う事は許されない。
「っ……!!」
私が迂闊だった。
マリアンヌを屋根の上に残してでも、テミスと一緒に行っていれば。
単独先行するテミスを引き留め、共に向かっていれば。
そんな、心の奥底から湧き出る絶望を、フリーディアは固く歯を食いしばって押し殺し、鋭い目で真正面から襲撃者を睨み付けた。
年のころは、十歳かそこらだろうか。
汚れた簡素な服から覗く子供然とした華奢な身体はとても細く、その手にしたショートソードがテミスに深手を負わせたなど、この目で見ていなければ到底信じる事はできなかっただろう。
だが。事実としてテミスは、この目の前の子供に首を刎ねられかけ、片腕を犠牲に辛うじて生き延びたのだ。
「あなたのような子が……どうしてッ……!!?」
絶望を封じ込めたフリーディアの心を次に満たしたのは、限りなく深い悲しみだった。
相対する襲撃者と同じ年ごろの子供など、ファントの町にはいくらでも居る。
しかし、この町の子供たちは笑顔と希望に満ち溢れ、剣を持つことどころか、殺し合う術など知らない。
だというのに。
今、自らの目の前に居るのは、年端も行かない幼い身ながら、濁り切った眼で鉄血の地獄の中を生きる化け物だった。
けれど、そんな悲しみを背負った子なら、誰も死なずに済む道があるかもしれない。
「くふっ……? あはははっ!! お姉さん、面白いね?」
「っ……!?」
「止せッ……フリーディアッ……!!」
「でもっ!!!」
唇から零れ出た悲しみが耳に届いたのか、襲撃者はニンマリと口角を吊り上げると、男の子とも女の子ともつかない、中性的な声で口を開いた。
「いいじゃない。しようよ。お話。久しぶりなんだ。隣のお姉さんが持つかは知らないけど」
「っ……!!! どうして……どうしてこんな事をするの!? 私たちは敵じゃない。だから武器を下して?」
「馬鹿――事ここに及んでお前という奴はッッ!! 武器を構えろ間抜けッ!!」
テミスの制止を黙殺したフリーディアが、少年とも、少女とも言えない襲撃者に言葉を返しながら、語り掛けるようにして剣の切先を下す。
その隣で、テミスはフリーディアの身を庇うように、剣を構えたまま一歩進み出ながら叫びをあげる。
「貴女こそ武器を下してテミス! この子はきっと、錯乱しているか……利用されているだけだわ!! だったら、助けてあげないと!!」
しかし、襲撃者と相対するテミスに縋るように、フリーディアがその肩に手を置いて引き留めた。
「チィィッッ……!!」
そんな様子を、襲撃者はただニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべて眺めている。
いい加減……我慢の限界だ。
現状を理解しないフリーディアの行動に、テミスは自らの脳裏が急速に冷えていくのを感じた。
僅かに揺れ始めた視界の奥では、未だ戦闘状態を理解していないと見えるマリアンヌが、今もこちらに向けて駆け寄ってきている。
だというのに、肝心のフリーディアは持ち前の狂った博愛精神で戦うつもりは無いという。
現実すらも理解できんというのなら……もう、その虫唾が走る程に青臭く、見上げる程に清らかな博愛の心を、壊してしまっても構わないだろう。
「フン…………」
テミスはそう心を決めると、フリーディアを己が身に縋りつかせたまま、構えた剣を肩に担いで息を吐く。
そして、冷たい眼差しで今一度、襲撃者の目を真っ向から睨みつけた。
「…………」
何度見ようとそこに在ったのは、テミスの良く知る汚泥のように濁り切った瞳だった。
そしてそのどろりと濁った瞳の中に、爛々と輝く狂気の光を見付けた瞬間。テミスは密かに胸の内で確信する。
この襲撃者は、いかにフリーディアが聖者が如き博愛の心を持っていたとしても、その思いが届く事は永遠に無いのだと。
そしてそれを証明すべく、テミスはコツリと足音を立てて更に一歩前に出ると、襲撃者を見据えて口を開いた。
「問おう。この町で暮らす気はあるか? 私に刃を向けた事も、下らん企みに加担した事も全て許し、穏やかな生活を提供すると言ったら?」
「……あははっ! 要らないよそんなの。お姉さん、変な事言うね? あっ! さてはそれ、命乞いってやつ? だめだよ! 駄目駄目!! お姉さんはちゃんと死んでくれなくっちゃ!!」
「フン……」
「なっ……!!」
その問いに、何処までも無邪気な声で返された答えは、テミスにとっては予想通りであり、フリーディアにとっては絶句を禁じ得ない程に衝撃的なものであった。




